東神戸教会
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メッセージ   2012年のメッセージ



『 天地を新しくされる神 』      ヨハネの黙示録21:1-7(1月1日)

2012年、新しい年を迎えた。
昨年は本当に大変な出来事の多い「激動の一年」であった。
新たな年は、昨年ほどひどいことが起こらない年であって欲しいと願うが、
なかなか明るい見通しが立てにくい現状でもある。
しかし聖書の語る信仰の世界は、そのような閉塞感の漂う現実の中にあっても、
それでも希望を持って生きていける物語を与えてくれる。

「私はまた、新しい天と新しい地を見た。」
今日の箇所に記された、黙示録の言葉である。
黙示録はローマ帝国によるキリスト教への迫害が苛烈を極めた時期、
そのような中をいかに信仰を保って生きるかというテーマで書かれた文書である。
オカルト的な表現が多かったりして取っつきにくい文書だが、
その全編に通底して流れている思想には大切な視座を与えられる。

その思想とは、
「いま、目の前にある現実だけが全てだと思うな」というものである。
先ほどの言葉との関連で言えば、
「いつの日か神が天と地を新しくされる日が来る。
だからこの辛い現実の中を、それでも希望を捨てずに生きていこう」
そんなメッセージを発信している。

「神が天地を新しくされる」という言葉は、最後の審判の思想とも相俟って、
彼岸世界、即ち「あの世の事柄」と受けとめる解釈もある。
しかし黙示録の文献研究によると、
その記述はかなり具体的にローマ帝国の滅亡を預言しているという。
信徒たちは暗号解読のような形でそのメッセージを受けとめていたというのだ。

では「神が天地を新しくされる時」、それはいつなのか。
具体的なことは何も分からない。
ただひとつ言えるのは、私たちの時間の感覚と、
聖書の時間の感覚は大きく違うということだ。
「千年王国説」のように、ひとつの時代の区切りが千年単位、
そのような時間のスケールで、物事をとらえ考えていたのである。

当時の社会情勢の中で、屈強なローマ帝国が滅びるなどという予言は、
荒唐無稽な戯れ言であった。
しかしそれは現実のものとなった。千年と経たないうちに。

いま、例えば福島の現実(原発事故・放射能汚染)のことで言えば、
避難を余儀なくされている人々に「いつか必ず帰れる日が来る」という言葉は、
何の気休めにもならない絵空事のように感じられるかも知れない。
しかし永久に帰る日が来ない訳ではない。
事故を起こした原子炉の情況さえ押さえることができれば、
数十年、場合によっては数百年かかるかも知れないが、その日はきっとやって来る。

能天気な楽観の立てづらい現実は確かにある。
しかしそんな中を「天地を新しくされる神」を信じつつ、
神の形作られる物語の中を、希望を抱いて歩む者でありたい。




『 仲間割れ 』      民数記12:1-8(1月8日)

同じ志を持ち、同じ目的に向かって歩んでいたはずの同志が、
いつの間にか互いの違いによって争ってしまう...。
私たちの社会ではそんな現実が起こり得る。
いわゆる「仲間割れ」である。
それはしばしば、敵対する者同士の争いよりも熾烈を極める場合がある。
どうしてそうなるのか?その理路を考えてみた。

利害を異にする者同士の間では、
考え方や価値観の違いは当然のこととして織り込み済みだ。
しかしある程度まで価値観を共有する者同士の間では、
「こうであるはずだ」「こうでなければならない」という意見を、
互いに押しつけ合ってしまう。
理想が高いほど、小さな違いが見逃せなくなってしまって、
自分の「正しさ」に固執してしまう...。
「仲間割れ」とは、実は相手へのある程度の期待があるからこそ
起こるものなのではないかと思う。

エジプト脱出を導いてきたリーダーたちの間にも、仲間割れが生じてしまった。
ヨシュアは「この自分を差し置いて...」というメンツのために、
モーセに対して不平・不満を洩らした。
アロン、ミリアムの兄姉は、
「なぜ神はモーセばかりを用いるのか」といったやっかみを抱きつつ、
モーセを非難した。
そんな彼らに対して神は激しい怒りをもって臨まれ、
ミリアムはそのために「重い皮膚病」にかかってしまったと記される。

ひとつの疑問が立ち上がる。
「どうして神さまは、モーセをそれほどまでに買っておられるのか?」。
ひとつのヒントになる言葉が記されている。
「モーセという人は、この地上の誰にもまさって謙遜であった」。

アロンやヨシュアのような優れた能力を持つ人は、
確かに大きな役割を担うことができる。
しかしそれ故に、その人はしばしばごう慢になってしまう。
「私にはその役割が担う力があるし、担うべきだ」と。
そのごう慢がねたみとなって、仲間割れを引き起こすのである。
私たちはこの出来事から、神の前に謙虚さをもって生きる大切さを学びたい。

それにしても、である。モーセと共に働いてきた彼らにして、
図らずも起こってしまった「仲間割れ」の現実に私たちは残念な思いを抱く。
しかし別の見方をすれば、それはそんなに捨てたものでもないのかも知れない。
仲間割れに先立ってあったのは、同じ目標に向かっていた情熱だったはずだ。
それぞれが自分の過ちに気づき、その理想を取り戻せば、
前にも増して固い絆が生まれると思うからだ。

むしろ私たちが危惧すべきは、仲間割れすら起こらない「なあなあ」の現実だ。
それは「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるい」(黙示録3:16)
そんな状態に他ならないからだ。

イエス・キリストの周りには、常に論争が絶えなかった。
イエスはユダヤ人社会に「仲間割れ」を持ち込んだ人だ。
その仲間割れを通して、人々を真実の道へ導こうとされたのではないか。




『 天(そら)を見上げて 』  詩編8:2-5,90:1-12(1月15日)

星空を見上げると、とても不思議な感覚に見舞われることがある。
「自分は何てちっぽけな存在なんだ」
そんな風に自分の小ささを実感する一方で、
「でもその自分はかけがえのない存在として、今を生きている」
そんな風に自分をいとおしく思える感覚を抱く。
自分の小ささと大きさを同時に体験する。
それはひとつの宗教的な体験だと言えよう。

これまで人類の歴史の中で、
そのような思いを抱く人の歩みが何万、何億と重ねられてきた。
しかし満天の星空を見るときに私たちは思う。
そのような人類の歴史というものも、あの満天の星から見れば、
ほんの一瞬の出来事なのかも知れない、と。
私たちが悩み、うろたえるような地上の出来事も、
あの星空の彼方におられる方から見れば、
ひと巡りの時の流れなのかも知れない、と。

詩編の90編に記される言葉。
それは押し並べて言えば「人間はちっちゃいなー!」ということである。
それは星空を見上げる私たちの実感と重なる。
しかし、詩編は「だから人生は虚しい」といった虚無を語るのではない。
詩編8編には、そんなちっぽけな人間に注がれている、
神さまのまなざしへの感謝の思いが綴られる。
その神さまの見守りを信じるとき、
人は悩み多き現実に向けて、再び向かっていくことができるのだと思う。

私たちが生きるのは、目の前の現実である。
しっかり地に足を付けて歩むことも大切である。
けれどもそんな現実の中を一喜一憂してしまう私たちだからこそ、
時に天を見上げて、祈りの心を抱いて生きることも大切にしたい。

♪『満天の星』  川上 盾

  大昔、この星が生まれ すべてが炎につつまれていた あの夜も
  雨が降り 海が生まれ 最初の小さないのちが目覚めた あの夜も
  鳥がいこい 獣がやすみ 森が枝をゆらした あの夜も
  火を手なずけた人間が 夜の闇に明かりを灯した あの夜も

  満天の星 そこで見つめてる
  満天の星 変わらずにそこにある
  満天の星よ そっちはどうだい?
  オレたちの星は どんなふうに見える?

  大地が激しく揺れ 大きな大きな波が街をおそった あの夜も
  寒さにふるえ ただ身を寄せ合い 家族の名を呼び続けた あの夜も
  電気を作る工場が破壊され 見えない恐怖が広がった あの夜も
  すべての明かりが消え、深い深い暗闇が世界をおおった あの夜も

  満天の星 そこで見つめてる
  満天の星 変わらずにそこにある
  満天の星よ そっちからどう見える?
  オレたちの星は まだ やっていけるのかい?

  これから始まる苦しみの時代に
  それでも生まれ落ちてくる赤ん坊の姿を
  ウソで塗り固めた世界を 
  なぜか守ろうとする 愚かな大人たちの姿を
  人間が汚した大地を 
  何百年もかけて浄化しようとしている この星の姿を
  いつかやがて寿命がきて 
  すべての働きをおえるであろう この星の姿を

  満天の星よ そこで見てておくれ
  満天の星よ 変わらずそこにいておくれ
  満天の星よ すべてをつつんでおくれ  
  満天の星よ...




『 笑い ― いのちの再生への祈り 』  ヨハネによる福音書16:16-24(1月29日)

昨年話題となった「なでしこジャパン」。
決勝のアメリカ戦、PK戦の前に円陣を組んだ様子を見て驚いた。
監督をはじめ選手全員が満面の笑みを浮かべて笑っていたのである。
片やアメリカの選手は緊張で顔が引きつっていた。
笑いの力が日本を優勝に導いたと言えるかも知れない。

人間は笑う生き物である。一口に「笑い」と言っても、
高笑い、せせら笑い、冷笑、苦笑など、いろいろな笑いがある。
そんな中で私たちに生きる力を与え、
心に、身体の細胞に活力を与えてくれるのは、健康的な天真爛漫な笑いであろう。
些細なことで屈託なく笑う赤ちゃんの姿を見ると、こちらもつられて笑ってしまう。
そして何とも幸せな気分になるのである。

日本の神話でも笑いがいのちの再生の力を持つものとして受けとめられているらしい。
『古事記』の中で神々が大笑いをする箇所がある。
天の岩戸に隠れたアマテラスを、神々が宴会で高笑いをして誘い出す場面である。
岩に隠れた(死んだ)アマテラスが、再生するプロセスの中で、
笑いが重要な要素となっているというのである。

沖縄には最近まで「えな笑い」という風習があったという。
「えな」とは胎盤やへその緒のことだが、
出産の後、「えな」を壺や桶に入れて土の中に埋める際に、
埋めた人が笑いながら帰っていくという風習である。
いのちの誕生と笑いとが深く結び付くものとして受けとめられている。

「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」とイエスは言われる。
「悲しみ」とは、イエスの十字架のことである。
その悲しみが喜びに変わる、と断言するところには根拠がある。
それは十字架の後、復活することが先取りされているから...
というのがヨハネによる福音書の描くストーリーである。

ヨハネ福音書のイエスは「何でも想定内」の人である。
だからゲッセマネの悩みの祈りをささげない。
十字架上で神に「なぜ見捨てたのですか?」と叫ぶこともない。
すべてを受け入れて世の救いのために十字架に向かう完璧な姿。
だから「神の子」と称されるのであるが、私にはどうも縁遠い。
むしろ悩みつつ歩む(ように見える)他の福音書のイエスに身近さを感じる。

しかし今日の箇所から、大切なことを学ぶのもまた事実である。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われるイエス。
イエスは信じておられたのだと思う。
「それでも人間には笑う力があるのだ」と。
確約された結論があるから笑えるようになる、というのではなく、
笑うことそれ自体の中に、明日を切り拓く力が宿っているということ。
イエスはその「笑いの力」を信じておられたのだと思う。

東日本大震災救援活動の中のひとつに、被災地に笑いを届ける活動もあった。
ものまねタレントのコロッケさんも、被災地に何度も出かけてライブをしている。
最初に訪れた石巻では、「本当に自分が来ていいのだろうか」と思ったという。
しかしあるおばあさんの「震災後、初めて笑った。元気もらった」といった言葉や、
いつまでも自分の周りにまとわりついて離れない子どもたちの姿を見て、
かえって自分の方が力づけられたと、涙ながらに語っておられた。

笑う力、それはいのちの再生への祈りに通じる。
わたしたちもその力を信じたいと思う。




『 最後に○○は勝つ 』  ヨハネによる福音書16:25-33(1月29日)

14~16章にわたる十字架前のイエスの最後の説教、その最後の言葉である。
ここでイエスは、弟子たちが真理を理解するほどに成長しつつも、
同時に十字架の道については未だ無理解であり、
その時になればイエスを見捨てて逃げ去ることを語られる。

しかしそれは、弟子たちを責めるためではない。
最後の道を神と共に歩むご自分の姿を見ることによって、
弟子たちが「心の中に平安を得るため」だと言われる。
弟子たちもまた、今後イエスと同じような場面に立ち会わされる。
その時に、今日の体験が支えとなるということだ。

私はこれまでさんざん、「ヨハネのイエスは分かり過ぎている人だ」とか、
「高飛車で偉そうで、身近に感じづらい」とか語ってきた。
しかし今日の箇所の最後の言葉には、「グッと来る」ものを感じる。

「あなたがたには世で苦難がある。
 しかし勇気を出しなさい。
 わたしは既に世に勝っている」。

この言葉も「復活の勝利」を先取りしたものだと言うこともできよう。
しかしそのような「確約された未来を冷静に語る」ニュアンスではなく、
予測のつかない不安に満ちた未来に、
それでも確信を抱いて臨もうとする息づかいを感じるのである。

高校野球地方予選の一回戦、シード校の優勝候補が格下の相手に対して
「オレたちはあの学校に勝っている」と語れば、それは高慢以外の何ものでもない。
しかし実力伯仲の決勝戦を前にして、
「今日は死ぬ気で頑張ろう。オレたちはきっと勝つ!負けてたまるか!」
そのように語ることは、大きな力を球児たちに与えることであろう。

「わたしは既に世に勝っている」このイエスの言葉も、
「負けてたまるか!」という宣言ではないだろうか。
そしてこの言葉を胸に抱いて苦難の道を歩まれたイエスの姿は、
多くの人々に、勇気と励ましを与えてきたことであろう。

ところで「既に世に勝っている」とイエスが言うとき、
いったい何が勝つのか、どのように勝つというのだろうか。
イエスを十字架へと追いやった人々の策略と暴力、
それを逆返しにして「やられたらやり返せ!」で勝つというワケではないだろう。

「最後の○○は勝つ」、そこにどんな言葉を入れるか。
そこにはその人自身の人生の哲学が凝縮されるだろう。
あなたはそこにどんな言葉を入れるだろうか。




『 厳しく問い、赦す神 』     民数記14:13-19(2月5日)

幼い頃、家庭の中で父親の言うことは絶対であった。
成長すると父親の言うことの矛盾を指摘し、
反論を企てることもできるようになった。
「親子」という上から下への一方的な関わりが、
ひとりの人間同士という水平の関係に変わっていく。
子どもの成長の過程で、どこの家にも見られる光景である。

旧約聖書の神には「厳しい裁きの神」というイメージがある。
旧約聖書は、その神の厳しいまなざしの下での、
「神の民」イスラエルの成長物語と見ることもできよう。

ノアの箱舟の物語では、人の罪に対する洪水による裁きの知らせを受け、
ノアは神の命じるままに箱舟を造り、その中に乗り込んで難を逃れた。
幼子のように、親に守られ親の言うことに忠実に従う子どもの姿に重なる。

少し進んだアブラハムの物語では、
神と直談判してソドムとゴモラの滅亡を防ごうとするアブラハムの姿が描かれる。
思春期となり知恵と正義感が増し、親に反抗する若者の姿に重なる。

今日の箇所のモーセは、さらに成長し、
堂々と神と交渉する大人の姿を垣間見させる。

エジプト脱出後いよいよ「約束の地」カナンへと向かう時、モーセは偵察隊を送る。
偵察隊の報告は次の通りであった。
「かの土地は豊富な大地で、まさに『乳と蜜の流れる地』です。
 ただ、その地に住む人は強く巨大で、とても勝ち目はなさそうです」。
この報告を受けてイスラエルの民は嘆く。
「あぁ、こんなことならエジプトに残っていた方が良かった。
 モーセよ、お前は我々をこの地で滅ぼすために連れてきたのか!」

これまでも中何度も繰り返されてきたこのクレーマーぶりに、
神は憤り、疫病をもって民を討とうとされる。
するとモーセが神に懇願するのである。

「もしここで民を討たれるならば、あなたは周りの民族の笑いものになるでしょう。
『救う力がないから、民を殺したのだ』と。
 かつてあなたは言われました。
『わたしはヤハウェ(主)、慈しみに満ち、罪と背きを赦す。
 しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を子に孫に、
 三代、四代までも問う者。』(出エジプト34:7)
 あなたはこれまで何度もこの民を赦してこられたではないですか。
 それと同じように、今ここにおいてもこの民を赦して下さい」。

このモーセの懇願を受け、神は民族一掃を思いとどめられる。
その代わりに、40年間(一世代が入れ替わる期間)、
荒れ野をさすらう試練を課せられるのである。

「はたして神は裁きの神か?赦しの神か?」昔から繰り返される問いである。
何か言葉を返すとすれば「厳しく問い、そして赦す神だ。」と答えたい。
人間の成長のためには厳しさも必要である。
しかし厳しさだけでは萎縮した精神の人間を生むだけである。
人を本当に作りかえる力を持つのは、過ちに気づかされたその後で、
「そんな自分が赦された」という、あたたかい経験なのではないだろうか。




『 イエス、最後の祈り ① 』  ヨハネによる福音書17:1-20(2月19日)

ヨハネ福音書は、イエスの伝記という側面だけでなく、
師であるイエスの教えによって成長へと導かれる弟子たちの物語ととらえることもできよう。
師弟関係において、最終的に目指す到達点とは何だろうか。

師にとってそれは弟子の成長であり、
最後は弟子が自分の力で一人で歩いていけるようになることであろう。
いつまでも師の助けを受けなければ一歩も進めない状態に置くことは、
師にとって恥ずべきことだ。
弟子が師に依存するだけでなく、師もまた弟子に依存する「共依存」の関係は、
最低の師弟関係だと思う。

14-16章に記された、弟子たちに向けてのイエスの最後の説教では、
イエスは自分がこの世を去ることを語り、
弟子たちにこれからイエス不在の中を生きる心構えを教えている。
イエスは弟子たちの独り立ちを心から願っておられるのである。
そしてそれに続いてささげられた最後の祈りが、今日の箇所である。

前半の部分で祈られていることは、大きく分けて二つ。
ひとつは「栄光を与えて下さい」ということ。
ヨハネ福音書においては、イエスの生涯はその初めから栄光に満たされていたと記されている。
ではなぜここで改めて栄光を求めるのか。

気になる言葉がある。
「わたしは彼らによって栄光を受けました」(10節)。
この世でのイエスの栄光は、それを信じる弟子の存在無くしてあり得なかったと言うことである。
イエスが栄光を願い求めるのは、自分のためではなく弟子たちのためである。
十字架の死は敗北の惨めな出来事ではなく、栄光を受けるものだということ。

弟子たちがそのことを知り、絶望せずしっかりと歩めるように...
そんな願いからイエスは栄光を求めておられるのではないか。

もうひとつ祈られたこと。
それは「彼らを守って下さい」ということである。
弟子たちがこれから生きる時代は、苦難と試練の時代である。
そんな中を彼らはイエス不在で生きなければならない。
自分の力で歩もうとする弟子たちを「どうぞ守って下さい」。
それがイエスの心からの願いである。
それは子どもの独り立ちを見守る親の思いにつながる。

人生には出会いがあり、別れがある。
いつまでも共依存ではいられない。
しかし師と弟子が遠く離れても、
それでも互いの無事を祈る中で「共に生きる」ことはできるのである。




『 イエス最後の祈り ② 』  ヨハネによる福音書17:26-26(2月26日)

大阪の新しい市長の、これまでの政治家には見られない発言や行動が話題を呼んでいる。
その政策の中味については触れないが、
危惧しているのは公務員や教員を一つにまとめようとしている彼のやり方だ。
自分の考えに反対する者には罰則を与え、気に入らなければ組織を去れ!というやり方。
市長は自分が選挙で選ばれたことで「民意を得た」としきりに語るが、
罰則と排除によるやり方は民主主義からは遠く外れるものだ。

けれどもそのようなやり方に対して、多くの大阪市民はこれを支持する票を投じた。
人をひとつにまとめるやり方として、対話と説得と粘り強い交渉による合意形成ではなく、
断定と懲罰と脅しによって事を進めようとする。
(教会の世界においても、同じようなことが行われている現状がある。)
何かそんな世相のようなものが、現代の日本をすっぽりと覆ってるのかも知れない。

イエスが十字架の苦難を前にして祈られた最後の祈り。
それは「すべての人を一つにして下さい」という祈りであった。
これから自分(イエス)は十字架の苦難を経て、父のもとへ帰る。
それから先弟子たちは、イエス抜きで自分たちの力で生きていかねばならない。
そんな弟子たちにとって最も大切で必要なこと、
それが「一つになること」だとイエスは言われるのである。

では、その「一つになること」とは、どのようなありようを表わすのだろうか。
エフェソ書においてパウロは「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」だと語る。
それは皆が同じ考え方、同じ行動様式で統一されるようなことなのだろうか。
しかし続く箇所では「それぞれの信仰のはかりに従って役割が与えられ...」と語り、
そしてその違いを持ちながら一つになる教会の歩みを、体の部分に譬えている。

それは規律と罰則と粛正によって同じ考え方を強いて、
一糸乱れぬ集団を築き上げることではない。
個々の考えの違いや個性を理由に排除せず、
違いを乗り越えて同じ方向を目指して歩む人の姿。
それこそがイエスの語られた「一つになること」ではないか。

震災直後から「一つになろう日本!」という言葉が叫ばれた。
未曾有の大災害に対して、この国に生きる人々が心を合わせて支援することは大切なことだ。
しかしそれはその呼びかけを受け情熱を感じた人が、
それぞれの思い・考えの中で応答し展開するというものであって、
「このような支援こそが正しいものだ。他は間違ってる!」というものではないと思う。
ましてや命令や罰則で、力ずくで作り上げるものであってはならない。

イエスの願われた「一つになること」。
それは義務や強制や、命令や脅しによるものではない。
それは神への祈りとして願われたものである。
その祈りに触れた者は、その言葉をイエスの遺言のように抱きしめて、
様々な違いを乗り越えて一つとなり共に生きる生き方を目指したことであろう。

わたしたちの目指すべき「一つとなる」歩み。
それもまた祈る心の中からこそ生み出されるものではないか。




『 宥(なだ)めの香り 』        民数記15:1-7(3月4日)

人間には五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)がある。
プロテスタントの礼拝はこのうち、聴覚第一、視覚第二、
ほかのものは脇へ置いてきたきらいがある。
それに対して、カトリックの礼拝では香を焚き、
嗅覚も大事なものとして配慮がなされている。
カトリックの礼拝が身体的であるのに対し、
プロテスタントは「頭でっかち」であると言われる由縁である。

旧約聖書において、礼拝のクライマックスは何かというと、
それは犠牲の供え物を献げる瞬間であった。
私たちの礼拝に例えれば、礼拝の中心は説教ではなく献金の時だと言える。
その献げ物の大半は、神殿や幕屋において火にくべられた。
動物の肉や麦や香草など、火にくべた供え物の煙が天に昇っていく。
するとその香りによって神さまは怒りをしずめられる。
これが「宥めの香り」である。

かつての口語訳聖書では「香ばしいかおり」と訳されていた。
英語の聖書を見ると、”Sweet aroma”(甘い香り)という言葉もあれば
”Soothing fragrance”(なだめる芳香)という言葉もある。
単に「いいにおい」というのではなく、
そこに「宥める(罪を赦す)」という意味を込めて語られるのが「宥めの香り」である。

この「宥めの香り」を最初にささげた人は、ノアであった。
洪水の後、ノアがささげた「宥めの香り」によって、
神は「もうこのようなこと(洪水による罰)は二度としない」と思われ、
そのしるしとして空に虹がかかったと記されている。
ノアの箱舟の物語は、この虹の部分までを含めて読むことが大切だ。

新約聖書では、エフェソ5:2やフィリピ4:18、第2コリント2章などに、
キリストの生き方や信徒の信仰生活が「香り」として語られる。
キリストに従う者の生き方にはおのずと漂う香りがあるということである。
「私たちはキリストによって神にささげられる良い香りです。」
                    (第2コリント2:15)

TVのインタヴューや、講演会の話などを聞いていて、
「おや?この人ははっきり公言はされていないが、クリスチャンではないだろうか?」
そのように感じ、後で調べて「あぁ、やっぱり」ということがしばしばある。
その人の語る言葉、物の見方・考え方に、
どこからともなくキリストの香りが漂っているのを感じるからであろう。

「キリストの香り」。
それは誰にでもすぐそれと分かる、
強烈な自己主張の強い香りでなくてはならないのだろうか。
むしろ、ほのかに漂ってくる、それでいて遠く離れても確かに感じられる、
そういうものであって構わないのではないだろうか。

私たち自身が「宥めの香り」となるために、
私たちもまたキリストの香りに包まれて歩みたい。




『 あなたの大地は滅びない 』  詩編102:13-29(3月11日)

東日本大震災からまる1年の3月11日を迎えた。
被災地ではそれぞれの場所において祈りがささげられていることだろう。
遠く離れた私たちにとっては、「何かしたい、何かせねば」と思いつつ、
なかなかその思いを充分に果たすことができない、
そんなもどかしい思いを抱きながらの1年間だったかも知れない。

かつて阪神大震災の時にも、
この国のあちこちに同じ思いで時を重ねた人たちがいたことだろう。
震災と否応なしに向き合わざるを得なかった体験者と、
そうでない人たちの間には大きなギャップがある。
しかし、「自分には何もできない」という思いを持つ人にとっても、
その忸怩たる思いを含めて、それが震災「経験」なのだと思う。

自分には何が出来たか、出来なかったのか。
いまこの情況の中をどう生きようとしているのか。
そんな自分の経験を忘れずに想い起こし続けること。
その持続力のある想像力が、
きっと私たちのこれからの生き方に影響を与えてくれるだろう。

詩編の言葉は、信仰者の神にささげる祈りの言葉である。
しかしそれは決して美しい言葉の集まりではない。
そこには嘆き、呻き、恨みや呪いの言葉すらある。
そこにあるのは人間の喜怒哀楽の感情すべて、ドロドロした情念の固まりである。

神に選ばれた民・イスラエル。
しかし彼らユダヤ人の歩んだ歴史は、誇れる繁栄の時代はほとんどなく、
奴隷・捕虜・被支配者としての苦しみの連続であった。
「どこに神がいるというのだ!」と吐き捨てても仕方ない歴史。
しかし彼らは神にすがること、より頼むこと、恨みをぶつけることを止めなかった。

恨み言を語ることは神から離れることだろうか?
そうではなく、それは最も神の存在を身近に求めている姿の現れではないだろうか。
ちょうど子どもが母親に悪態をつくとき、最もその存在を身近に感じているように。
神への恨み言を叫ぶという行為そのものが、
神を切実に求める思いの裏返しと言えるのではないだろうか。

彼らには確信があった。自分たちの苦しみを含むこの世の現実、
それは確かに過酷なものであるが、永遠に続くものではない。
人間のわざはいつかは朽ち果てる。しかし、神のみわざは永遠である。
たとえ天地が滅んでも、神のみわざは滅びない。
その神により頼むところに、苦難の中にある希望、
絶望の中にある救いがある。そんな信仰の姿である。

まる1年たった今、いまだ瓦礫は片付かず、復興への道のりははるか遠く感じる。
原発事故による放射能汚染は、震災がまだ継続中である現実を私たちにつきつける。
しかし、「すべて流されてしまった。海が死んでしまった」と思われていた海では、
魚が戻り、海草が育ち、海が洗われたことによって
かつて以上の豊穣が戻りつつあるという。
農地の放射能汚染は深刻だが、それでも畑をダメにしないようにと、
出荷停止の牛を飼い続け、牛に草を食べてもらうことによって
いつかやがてその地に戻る日まで農地を保とうとしている人がいる。

人間の造る建物、堤防、原発、
それはいかに堅牢なものであっても建っては崩れ、それを繰り返す。
しかし神の造られたこの大地は、
そしてその大地と共に歩もうとする人の営みは、
この地球という星の寿命が尽きるまで、決して滅びることはない。
そう信じるところに、私たちの希望の根拠を見出していく者でありたい。




『 自分に言い聞かせる言葉 』       創世記1:29-31(3月18日 第3礼拝)

3月11日より、仙台・石巻・福島方面に“歌うボランティア”として出かけてきた。
午後2時46分は飛行機の中、雲の上で黙祷をささげた。
仙台空港着陸寸前に見えた海は、あの日と違って静かできれいな海だった。
飛行機を降りる間際に客室乗務員の女性に
「1年間、本当にお疲れさまでした」と声をかけると、突然涙ぐまれた。
きっと様々な思いを抱いて過ごした一周年の一日だったのだろう。

各地の教会、保育園、仮設住宅などでは、ミニコンサートをさせていただいた。
1年前の同じ時期には、とても「歌を届けに行こう」などとは思えない情況だった。
何度かボランティアに出かけたときも、気後れしてあまり歌えなかったことを思い出す。
しかし今回思い立って呼びかけたところ、
何人もの方が応じて下さりこのような機会を得た。

福島県伊達市の飯舘村民仮設住宅では、童謡「ふるさと」のリクエストを受けた。
「志を果たして、いつの日にか帰らん」
この歌詞をどんな思いで歌われるかと思うと、声が詰まって歌えなくなった。
切ない想いで涙を流すことで、何かが癒されることを願わずにはいられなかった。

今回の旅を通じて、改めて思ったことが二つある。
ひとつは「やはり歌には力がある」ということ。
そしてもう一つは、「この世界はそれでも美しい」ということである。
この二つを「自分に言い聞かせる言葉」としてこれからも歩む決意を新たにした。

創世記の物語の中で繰り返される言葉がある。
「神は見てよしとされた」「見よそれは極めてよかった」。
旧約の民・イスラエルにとって、世界の現実・歴史は、決して喜ばしいものではなかった。
むしろ過酷で熾烈な歴史の中を歩むことを余儀なくされていた。
しかしそんな中で彼らが自分たちに言い聞かせた言葉、
それが「見よそれは極めてよかった」という言葉である。

この世界は基本的に美しい。そして神はいつかきっと我々を救って下さる。
そう信じること、言い聞かせることで彼らは過酷な現実を生き延びたのである。
そのような自分自身に言い聞かせる言葉を持つ人は、
どんな絶望の中でも光を目指して手を伸ばし続けることができるのだと思う。

今から神戸マス・クワイアがひとつの歌をうたう。
“What a wonderful world”(何と素晴らしい世界)
震災以来、いろんなアーティストによって歌われてきた歌である。
その歌詞の中に“I think to myself...(what a wonderful world)”という言葉がある。
「私はそっと思う」「心の中で思う」と訳されることの多い言葉であるが、
今回は「私は自分自身に言い聞かせる」― そんな響きで受けとめたい。

「虹の色は、空に美しく広がり、行き交う人の頬を照らす」という言葉もある。
虹は不思議なものだ。ただそこに架かってるだけで、人の心を明るくしてくれる。
虹は何もしてくれない。でも、それを見た人のときめきは、
きっと何かを動かす、何かを始める力を与えてくれるであろう。
これから被災地に、何度も何度も虹が架かることだろう。
そしてそのひとつひとつの輝きが、かの地の明日を導いてくれる...。
そう信じて、「世界は素晴らしい」という言葉を自分に言い聞かせたい。

  What a wonderful world

  I see trees of green red roses too, 
   緑の木立ち、赤いバラ、  
  I see them bloom for me and for you
   あなたと私のために咲いている
  And I think to myself what a wonderful world.
   私は思う 「なんて素晴らしい世界なんだ!」と
  I see skies of blue clouds of white,
   空の青さ、雲の白さ    
  Bright blessed days dark sacred nights
   明るい祝された日々、暗い聖なる夜
  And I think to myself what a wonderful world.
   私は思う 「なんて素晴らしい世界なんだ!」と
  The colors of a rainbow so pretty in the sky,
   虹の色は 空に美しく広がり
  Are also on the faces of people going by
   行き交う人々の 頬を照らす
  I see friends shaking hands, saying how do you do
  人々は握手を交わし 「ごきげんよう」と挨拶する
  They're really saying I love you.
  でも本当は「愛してるよ」と言ってるんだ
  I hear babies cry I watch them grow,
  泣いている赤ん坊も だんだん大きくなってゆく
  They'll learn much more than I'll ever know
  これからたくさんのことを学んでゆくだろう
  And I think to myself what a wonderful world
  そして私は自分に言い聞かせる 「なんて素晴らしい世界なんだ!」と
               



『 石の叫び 』     ルカによる福音書19:37-40 (4月1日)

今日は「棕櫚の主日」。
エルサレムに入城するイエスを人々が棕櫚の葉を振って迎えたことから
そのように呼ばれるようになった。
棕櫚の葉は勝利の象徴であり、王のシンボルである。
ユダヤ人たちはイエスを解放をもたらす「新しい王」と期待し、
「ホサナ!(救いたまえ!)」の歓声と共に迎えた。

確かにイエスは、それまでの活動において「解放の福音」を語られた。
しかしそれはユダヤ人たちが求めていたものとはズレていた。
ローマの圧政や、ユダヤ教指導者の厳格な戒律主義からの解放を求めた群衆に対し、
イエスの示された解放は、もっと内面的な深いものだった。
それは自分を深く見つめ、自分の過ちに気付きその罪を悔い改め、
愛を持って隣人と共に生きようとする人にもたらされる、そんな「救い」であった。

ユダヤ人たちの期待と自分の目指す道がズレていることを知っていたイエスは、
エルサレム入城に際し、ひとつのパフォーマンスを企てる。
それは力強い軍馬にまたがるのではなく、力弱いロバの子に乗って進まれたのだ。
「私はあなたがたが望むような、軍事的・政治的救世主ではないのだよ...」
ロバの子の背に乗って進むイエスの姿は、そんなことを伝えている。

しかしその思いは、群衆には伝わらなかった。群衆たちの思いはズレていた。
そしてそのズレが、やがて期待外れの失望感に変わり、
日曜日に「ホサナ!」と迎えた人々が、木曜日には「十字架につけよ!」と変貌する。
そうしてイエスは十字架の苦しみへと追いやられてしまうのである。

イエスと、群衆の思いとはズレていた。
しかし群衆の切実な願い、救いと解放を求めるそのやむにやまれぬ思いというものは、
イエスは、それはそれとして受けとめておられたのではないかと思う。

群衆が熱狂してイエスを迎えるのを見て、ひとりのファリサイ派が抗議する。
「こいつらを叱って、黙らせろ!」
群衆の熱狂の背後に、自分たちへの不平・不満があるのを敏感に察知したのだろうか。
あるいは騒ぎを起こすと、ローマ兵士を刺激してしまう心配からそう言ったのかも知れない。

するとその抗議の声に対してイエスは言われた。
「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」
そのくらい、民の嘆き・苦しみは深いのだ ― それがこのイエスの言葉の意味であろう。
イエスは石の叫びを聞く人、人々の言葉にならない嘆きや悔しさを感じ取れる人であった。

先日、神戸女学院で行なわれた、話題の詩人・和合亮一さんの講演会に参加した。
福島県の高校の国語科の教員をしながら、
現代詩(シュールレアリズム)の詩作をしておられた和合さんだが、
震災後、詩の作り方がまったく変わってしまったという。
それまでほとんど使うことのなかった直接的な感情表現が、
考えるより先に言葉として溢れ出し、それをツイッター上に次々に発表されるようになった。

和合さんはその言葉のありようを、「これは感情の記録です」と語られた。
震災を、客観的な出来事として記録するのではなく、感情として記録すること。
それが未来の子どもたちに対する自分の責務だと考えるようになったという。

講演会なので淡々と言葉を語られる時間が続いたが、時折突然詩の朗読が始まる。
それはそれまでの講演の時とはまったく違う激烈な感情の表出であり、聴く者を圧倒した。
私は聴きながら思った。「これは石の叫びだ」と。
フクシマに生きる人々の、言葉にならない思いや、表にあらわせない怒りを、
詩人・和合亮一が聞き取り、感じ取り、からだ全体で受けとめ、
そして「石の叫び」として世に届けておられるのだ、と。

日本人は感情を表現することが少ない国民性であると言われる。
それが日本人の美徳にように言われることも少なくない。
人と人が対立することを避け、「和をもって尊しとなす」そんな民族的DNA。
しかしそのような歩みは、人間にとって大切な物を置き忘れてしまうことにもなりかねない。
それは痛みを覚える人のその痛みを、自分のことのように感じ取る感受性、
ひと言で言えば、「石の叫び」を聞く耳・心を失ってしまうことだ。

イエスは「石の叫び」を聞く人、声にならない声を聞き取ることができる人だった。
それ故にこそイエスは、どんな時も、どんな人相手にもはっきりと言うべきことを言ったし、
そしてそれ故にこそ、十字架への道へと進ませられる運命を生きられた。
しかしその十字架へ向かう歩みを通して、
私たち人間にとって大切な物を教え示されたのだと思う。

イエスの生き様を深く受けとめ、私たちも「石の叫び」を聞こう。




『 わたしはあなたをあきらめない 』  ヨハネによる福音書21:15-17(4月8日 イースター礼拝)

イエス・キリストの復活を祝うイースターの朝は、
現代に生きるキリスト者にとっては喜びの季節である。
しかしゴルゴタ直後のエルサレムにおいて、
特にイエスに従った弟子たちにとっては、
また少し違うトーンの空気が流れていたことだろう。

イエスがローマの兵士に捕らえられ、引かれたた時、
弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去ってしまった。
一番弟子のペトロにおいては、イエスの予言通り
「あんな人のことは知らない」と3度にわたってイエスを裏切った。
直後の鶏の声を聞いて彼は自分の罪を悟り、外に出て激しく泣いたという。
自分の弱い心に負けてしまった情けなさ、悔しさ。
鬱々とした思いを抱えながら、金曜日・土曜日と二つの夜を過ごしたことだろう。

その弟子たちにイエスの復活の知らせが届く。
墓を見に行った女性たちからの報告である。
弟子たちはその言葉をどう聞いただろうか?
ルカ福音書には「すぐには信じようとはしなかった」とある。
すぐには喜べなかったのではないだろうか。

ヨハネ福音書では女たちの報告の後、
イエスが現れて手と脇腹の傷を見せられたとある。
「弟子たちは主を見て喜んだ」とあるが、本当にそうだろうか。
自分たちが裏切ったイエス、そのため十字架に架けられたイエスが、
今目の前に現れて、傷跡を見せられたのである。素直に喜べただろうか。
むしろ「勘弁して下さい。どのツラさげてイエスさまに会えるでしょうか...」
そんな思いでいたのではないか。

今日の箇所はイエスがペトロに向かって
「あなたは私を愛するか」と3度にわたって問われた場面である。
この3度という回数は、ペトロがイエスを裏切った回数と対応する。
3度も同じ問いかけを受けて、ペトロは「悲しくなった」とある。
良心の呵責に苛まれるペトロにとって、拷問にも等しい仕打ちとも思える。

しかしこの問いかけの最後をイエスは同じ言葉でしめくくられる。
「私の羊を養いなさい」。
イエスに代わって、今度はあなたが信じる者を導きなさいということである。
これはイエスからペトロに向かって語られた、
「わたしはあなたをあきらめない」という宣言ではないだろうか。

ペトロと同じように、私たち人間はみな弱く、過ち多い存在である。
しかしそんな自分自身に向けて「あなたをあきらめない」という
神さまからの呼びかけがあることを信じて、
よみがえりの主と共に新しく生きる者となろう。




『 罪を思い止まるしるし 』        民数記17:1-5(4月15日)

あなたは「罪を思い止まるしるし」を持っているだろうか。
何でもいい。それを見ることで、心の中に沸き起こる悪しき思いを防ぎ止めることができるもの、
それが「罪を思い止まるしるし」である。

お寺に描かれる地獄絵図や、教会の煉獄図・最後の審判の絵などは、
「悪いことするとああなるんだよ」という教化的な意味で用いられたものであろう。
「脅し」による「罪を思い止めるしるし」である。
しかしそれ以外にも、自分が過去に犯した過ちを思い起こし、
その時の気まずい気持ちや恥ずかしさを思い出す。
そうすることによって罪を思い止まるしるしもある。

ある学校の先生は、自分が中学生のときに友人の手鏡を盗ってしまったことがあり、
結局それを返せないままずっと過ごされた。
教師になってから、毎年生徒にその手鏡を見せ
「これを見るたびに、自分の弱い心に負けないようにと言い聞かせてる」というお話をなさるという。
今なら誰でも買える小さな手鏡が、その方にとっては「罪を思い止まるしるし」なのだ。

今日の聖書の箇所(民数記)は奇妙な箇所である。
焼け跡から罪によって焼かれた者の香炉を拾って板金にし、
それを「祭壇の覆いとせよ」と神が命じられたというのだ。
「罪によって焼かれた者」とは、モーセに反逆をした人々のことである。
指導者に反抗するのは困ったことではあるが、焼かれて滅ぼされるほどの悪行だろうか?
やり過ぎではないだろうか。旧約の神さまは、時に私たちにとってあまりに厳し過ぎる。

しかし、その処罰の是非は置くとして、
罪を犯した者たちの持ち物を、みんなが祈りの度に目にする場所に掲げるということ。
その意味については興味深いものがある。
罪を「心の中で=脳内の現象で」防ごうとするだけでなく、
「目に見えるものによって=身体的な入力で」防ごうとするということである。
その方が効果的であることを、いにしえのユダヤ人は知っていたということかも知れない。

さて、私たちにとって「罪を思い止まるしるし」とは何だろうか。
「自分には何も思い当たらない」という人にとっても確かなものがひとつある。
それはイエスの十字架だ。
イエスを十字架へ追いやった人々の罪、それは決して2000年前の人々だけのものではない。
同じような過ちは私たちも日々繰り返してしまう。
十字架を見るたびに、そのような自分の罪をふりかえることができればと思う。

しかし十字架はただ単に辛い思いを与えるだけのものではない。
イエス・キリストの復活と伴って、人間の罪を赦す神の恵みのしるしでもあり、
それは「罪を思い止まるしるし」であるのと同時に、
私たちにとっての救いのしるしでもあるのだ。




『 さぁ、共に生きよう 』      ヨハネによる福音書15:11-17(4月22日)

讃美歌21の368番「新しい年を迎えて」は、新年のための讃美歌である。
しかしその歌詞の内容は、一年に一度しか歌わないのはもったいないものだ。
歌詞を「新しい朝を迎えて」「生き方を共に目指そう」と変えれば一年中歌えると思う。

特に4番の歌詞がいい。

 「自分だけ生きるのでなく みな共に手をたずさえて
  み恵みがあふれる国を 地の上に来たらすような
  生き方を今年はしよう(共に目指そう)」

今日は私たちにとって大切な教会総会の日である。
気負わず、てらわず、しかし現状に居直らず、新たな年度への思いを込め、この歌を歌いたい。

今日の箇所は、ヨハネ福音書の中でイエスが弟子たちに語られた最後の教え、
しかも最も核心に触れた部分である。いわばイエスの遺言だ。

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
 「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。

イエスが弟子たちを愛され、神がこの世を愛された。
その愛を受けた者として、あなたも愛=すなわち人を大切に思う心を大切に持ち、
それを相手に届けなさい、ということだ。

イエスはこうも言われる。「友のために命を捨てること。これよりも大きな愛はない」。
これはなかなか実行の難しいことである。
これが究極の愛の姿であることは理解できても、実際に行動に移せるかどうか自信がない...
それが多くの人の本心ではないだろうか。

しかしイエスは「これよりも大きな愛はない」とは言われたが
「命を捨てなければ本当の愛じゃない」と言われたわけではない。
命を捨てることはできなくても、自分の力や財や時間を捧げることは、私たちの決意次第でできることだ。
その小さな歩みを積み重ねることが「共に生きる」ことであり、本当の豊かさに至る道ではないだろうか。

大学を一年休学して東北教区救援センター・エマオのボランティアに専念していたわが家の息子が、
専従を終えるにあたってのあいさつでこう記していた。

「辛いこと、苦しいこと、腹の立つこと、いろいろあったけど、
でも基本的に楽しかった日々でした。」

そう、「共に生きること」は基本的に「楽しいこと」だと思うのだ。

イエスの教えを心に抱き、神のまなざしを感じながら、「共に生きる」ことを楽しもう。




『 十字架の周りの人々 ① ピラトと群衆 』   ヨハネによる福音書18:35-40(4月29日)

たまたま、ある責任あるポストに着いていた時期に重大な出来事が起こったために、
後の時代にその名前が繰り返し呼ばれるという人がいる。
最近で言えば、福島第一原発事故時における枝野官房長官の言動などがそれだ。
その人だけが特段に悪いのではないが、
その時責任あるポジションにいたことが、強い印象として残るのである。

ポンテオ・ピラトはイエス・キリストの時代、
ローマ帝国のユダヤ総督を務めた官僚である。
彼の名前はキリスト教会において使徒信条において
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」と語り継がれている。
何かピラトひとりがキリストの十字架の責任者のように思えて、少し気の毒な気がしてくる。

聖書を丁寧に読めば分かることだが、
イエスを十字架に追いやったのはピラト一人の仕業ではない。
いやむしろ、ピラトはイエスが無実であることを知り、
何度かイエスを許そうと画策するのである。
それでも「十字架につけよ!」と騒ぎ立てる群衆の勢いに押されて、最後は処刑の命を下した。

ヨハネ福音書におけるピラトは、他の福音書と比べても、
より深くイエスと出会い対話を重ねているように思える。
ピラトはイエスの中に何か真実なものを見出していたようにすら読めるのである。
そんなことが元になってるのだろうか、東方正教会の流れを汲む教派には、
彼が後に回心して洗礼を受けクリスチャンになったという伝説もあるそうだ。

しかし最終的に、イエスはピラトの統治下で処刑された。
群衆から「この男を放任する者は皇帝の名にふさわしくない」と言われたのが原因だと考えられる。
皇帝の元での自分の地位やステイタスを守ろうとする心理...。
要するに真実を守ることよりも、自己の保身を優先したということである。
それがピラトの罪であり、そして同じような過ちは私たちも繰り返し行なってしまうものである。

もうひとつ私たちが覚えねばならないことがある。
それはピラトに苦渋の決断を迫った群衆の存在である。
誰かを悪者に仕立て、その存在を叩くことによって快哉を叫ぶ心理。
それはTVのニュースやワイドショーにすぐに影響され、いつも誰かを攻撃し、
白黒はっきりつけようとする為政者が多くの得票を集めてしまう私たちの現実そのものだ。

十字架の周りに立つピラトと群衆の姿。
それは他でもない、私たち自身の姿でもある。




『 十字架の周りの人々②兵士たち 』  ヨハネによる福音書19:1-3、17-24(5月6日)

イエス・キリストが「十字架刑で処刑されたとき、
実際に下手人としてイエスを釘付けにしたのはローマの兵士たちであった。
彼らは、ユダヤの最高権力者・ピラトの命令を受けて、それを実行した。

軍隊の兵士にとって何よりも大事なもの、それは上官の命令である。
戦場で各人が自分の考えで動けば、収拾がつかなくなる。
兵士は戦場では将棋の駒、機械の歯車になることを要求される。

兵士に人間的資質や豊かな感受性は必要ない。
上官の命令に正しく従い、成果を効率よく果たすことだけが求められる。
この「非人間性」に耐えて生きなければならないのが、兵士の宿命である。

兵士の中には、背後にある権力や武力が大きければ大きいほど、傍若無人に振る舞う者がいる。
今日の箇所で、十字架にかけられたイエスを平手で打つ兵士が登場するが、
彼などがその典型であろう。
しかし私たちはこの兵士を批判できるだろうか。
私たちも形を変えて同じようなことをしてしまってはいないか。

さて、そのような非人間的な環境で生きる兵士の中にも、
イエスと深い人格的な出会いをした兵士がいたことを聖書は伝える。
ヨハネには登場しないが、イエスが十字架にかけられる一部始終を見て
「本当にこの人は神の子であった」とつぶやいた百人隊長がいる。
ルカ7章にはイエスによって病気の部下を癒してもらった百人隊長が登場するが、
ひょっとしたら同一人物かも知れない。

ヨハネはこのエピソードを記さず、その代わりに兵士がイエスの服をくじで分け合ったこと、
そして脇腹を槍でついたことを詳しく記している。
そしてそれらの出来事は、旧約聖書の成就であると受けとめる。
私たちの目から見て最悪の出来事の中にも、
神の御心を見ようとする信仰が、ここに語られているのである。

軍隊という非人間的な組織、それはイエスの教えた神の国とは対極にあるものだろう。
しかしそのような組織に属する者の中にも人間の心を失わずにいる人がいること。
また兵士たちの振る舞いの背後にも、神の不思議な導きがあることを、聖書は語るのである。




『 十字架の周りの人々③女性たち 』  ヨハネによる福音書19:25-27(5月13日)

東神戸教会の礼拝メッセージでは、ヨハネによる福音書を続けて読み進めている。
最初に取り上げたのは3年前、2009年の母の日であった。
3年が経過した今日・母の日、ヨハネの物語も終焉を迎えている。
今日はイエスの十字架の周りに佇む人々のうち、女性たち、
特にイエスの母マリアの姿に注目したい。

イエスには12弟子の他にも何人も従う者、弟子たちがいた。
ルカには「他に72人を選び...」という記述もある。
女性と子どもは人数に数えられなかった時代(五千人の給食)であるので、確かなことはわからないが、
何人かの女弟子がいたことも知られている。

ヨハネ福音書には重大な局面に登場する女性の姿が特に多い。
(サマリアの女、姦通の女、ベタニヤでの香油注ぎ)
そして、4つの福音書に共通するものとして、イエスの復活を最初の告げられたのも女性たちである。
男の弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去ったが、女の弟子たちは最後まで十字架の傍に佇んでいた。
その女性たちに最初の復活の喜びが伝えられたのである。

これを「男はいざというときにだらしない。女の方が腹がすわっている」と言うこともできよう。
しかしそれは少し男の弟子たちに気の毒だ。
男性中心であるということは、逆に大きな責任を負わされるということでもある。
十字架の傍に男の弟子が立っていたら、すぐに捕えられたであろう。
彼らは近寄りたくても近寄れなかった。
しかし女性たちは、本人が望みさえすれば近寄れる立場にいた。

十字架の傍に佇む女性たちの中に、イエスの母マリアの姿もあった。
自分の息子が処刑される母の気持ちとはどんなに辛いものだろうか。
しかしその母に向かって、傍らの弟子にまなざしを送りつつイエスは言われる。
「婦人よ、ご覧なさい。あなたの息子です」。
片やその弟子には「ご覧なさい、あなたの母です」と言われた。

「婦人よ(ギュイネー=lady)」とは丁寧な言葉ではあるが、
実の親に対しては少し冷たくも感じる言葉である。
イエスにはある意味、肉親の情を断ち切って神の家族を目指しておられた部分がある。
そんな思いがこの言葉に表れているのかも知れない。
イエスがもしも肉親の情にほだされるような人だったならば、
とても十字架への道を貫くことはできなかったのではないか。

しかしそのように歩んだイエスではあったが、
決して肉親への思いを捨て去ってしまった訳ではなかった。
十字架の傍に佇む母ともうひとりの弟子に向かって、
新しい家族の絆に結ばれて生きることを願っておられるのである。

思わず目を背けたくなる十字架という痛ましい出来事。
しかしその現実の前に、それでも彼らは立ち続けた。
そこに新たな家族の絆が開かれていったのである。




『 十字架の周りの人々 ④ ヨセフとニコデモ 』 
                        ヨハネによる福音書19:38-42(5月20日 第3礼拝)

今日の第3礼拝では、フルートとオルガンの合奏をしていただいた。
フルートもオルガンも「風の音」である。
ペンテコステの季節、心豊かに風の音を聴くことができ、感謝である。

さて、シリーズで行ってきた「十字架の周りの人々」。
最終回は、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人である。
ニコデモはヨハネ3章に登場し、イエスと深い対話とした人である。
その対話の中でイエスは言われた。

 「風は思いのままに吹く。
  あなたはその音を聴くが、
  それがどこから来てどこへ行くかを知らない。
  霊から生まれた者も皆その通りである。」

ニコデモはこの不思議な言葉をすぐには理解できなかっただろう。
しかし同時に、何か真理に通ずるものを感じたのではないだろうか。
彼はファリサイ派の一員でありながら、イエスを信じる人となっていった。

アリマタヤのヨセフは、全ての福音書に登場する人物だ。
「金持ちで」(マタイ)、「身分の高い議員」(マルコ)、「善良で正しい人」(ルカ)といった記述から、
それなりの人物で皆から一目置かれていた人と思われる。
そんな人物がイエスの遺体を引き取ることをピラトの申し出たのである。

イエスを見捨てた弟子たちと比べて、ヨセフのこの行動を「勇気ある行為」と持ち上げる向きもある。
しかしヨセフと弟子たちを比べるのは、弟子たちに気の毒だ。
もし弟子たちが同じことをピラトに申し出たら、了承されるどころか、反対に逮捕されたかも知れない。
ヨセフは立場的にそれができるポジションにいたと言える。

そんなヨセフですら、イエスの十字架そのものを阻止することはできなかった。
彼ほどの人物、その気になればあらゆる手をつくして止められたかも知れない。
しかし彼はそこまではしなかった。できなかった。恐らく弱さ故に。

遺体を引き取るという申し出は、彼のできる「十分ではないけど、せめてものこと」だった。
それはあるいみ「小さな勇気」を要する行為だったと言えるだろう。
けれどもそのことでイエスの遺体は、鳥や獣についばまれることを免れ、
それがやがて復活の出来事へとつながってゆくのである。

ニコデモとヨセフの間には、何らかの交友関係があったと思われる。
ニコデモはヨセフに、昔聞いたイエスの不思議な言葉を伝えたのではないだろうか。

 「風は思いのままに吹く。
  あなたはその音を聴くが、
  それがどこから来てどこへ行くかを知らない。
  霊から生まれた者も皆その通りである。」

ヨセフもニコデモも「風の音」の中に、神さまからの語りかけをを聴いた人なのではないだろうか。
目に見えないものの中に、大いなる力を感じる時、そこに「小さな勇気」が導かれる
そしてその「小さな勇気」が、やがて大きな物語へとつながってゆく。。




『 遣わされる者 』   ヨハネによる福音書20:19-23(5月27日 ペンテコステ礼拝)

今日はペンテコステ。
十字架の時にはイエスを見捨てて逃げ去った弟子たちに、
聖霊の導きが降り強められて宣教が始められた日である。
あまりに弟子たちの姿が見違えたので、周りの人々は酒に酔っていると思ったという。

ひとつの覚悟を抱いて何かの臨む人の姿は、
確かに何かに取り憑かれているように見えることがある。
弟子たちは確かに酔っぱらっていたのかも知れない。
ただし酒のスピリッツではなく、聖霊のスピリットに。

今日の箇所は、復活の知らせを受けた後、
初めてイエスが弟子たちの前に姿を現した時の様子を伝える。
「ユダヤ人を恐れ、部屋に入り鍵をかけていた」弟子たち。
まだここでは心弱い姿のままだ。
そこにイエスが現れ、「あなたがたに平安があるように」と言われたと記される。
これは「シャローム」というユダヤ人の挨拶の言葉だ。
マタイではこれを「おはよう」と訳している。

続いてイエスが手と脇腹の傷跡を見せると、弟子たちは「喜んだ」とある。本当だろうか?
イエスを見捨てた弟子たちが、傷跡を見て喜ぶことができただろうか?
むしろいたたまれない気持ちになったのではないだろうか。

続く言葉に注目したい。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わす」。
そう言って、「彼らに息をふきかけられた」とある。
「聖霊」を表わす「プニューマ」は、他方では「息」「風」という意味を持つ。
聖霊という不思議な風に押し出されて、宣教の現場に遣わされてゆく...。
ヨハネではこのときがペンテコステの出来事なのだ。

その遣わされた道とは、どんな道か。遣わされた者の生き方とは、どんな生き方か?
私は思う。そこにはたったひとつの理想だけがあるのではない、と。
自分の中に理想を持ち、それに従って生きることは大切なことだ。
しかし、その自分の理想に合わないものは「間違いだ!」と言って非難し、切って捨てる...。
「聖霊によって遣わされた者の歩み」とは、そんな息苦しいものではないはずだ。

 「働きにはいろいろあるが、これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、
  “霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださる。」 
                      (コリント第一12章)

聖霊によって遣わされた者は、互いの違いを認め合う開放性へと導かれる。




『 祭司というおしごと 』        民数記18:1-7(6月3日)

人類共同体のほとんどのコミュニティには、シャーマンと呼ばれる人の存在がある。
神事を専門に担う人、いわゆる「宗教者」のことであり、
古代イスラエルにおいてはそれは祭司と呼ばれる人のおしごとだった。

民数記18章はその祭司に関する決めごとが記された箇所である。
彼らには宗教的な役割を担うことが求められ、
その代わりに共同体の生産活動(農耕、狩猟)に携わることが免除されていた。
神殿や幕屋で献げられた供え物の肉を食べることが許され、
他の供え物の十分の一を報酬として与えられていた。
その代わりに「嗣業」と呼ばれる土地を所有することは認められていなかった。
この祭司の任につくことができるのは、伝統的にレビ族出身の者に限られていた。

畑を耕したり、家畜を飼ったりすることなく、祈りと儀式を行うという役割。
こういう役割が存在しているということは、どういうことなのだろうか。

人間が一つの生き物として「生きている」ということ。
それを動物的な観点から客観的に表せば「生産・消費・生殖」ということになるだろう。
生きるために食べ物を確保し(生産)、それを食べて命をつなぐ(消費)。
そしてその命を次の世代へと継承する(生殖)。
この動物的な運動の中では、祭司の役割は必ずしも必要なものではない。

そのような、共同体にとっては「お荷物」となりかねない存在を、
むしろ必要なもの、大切なものと位置付けているのが人間の特徴だ。
これは人間という生き物が「生産・消費・生殖」という行為だけを
目指して生きているものではないということを表わしているのではないか。
すなわち、人間とは霊的な存在でもあり、「こころ」に関する役割を担うために、
祭司というおしごとを必要としているということだ。
「人はパンのみに生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)

私が牧師になりたての若い頃の頃を思い出す。
自分という存在が社会の歯車のどこにも属していないような気がして、
「これでいいのだろうか?」と自問自答していた時期があった。
しかし今は、むしろ社会の歯車にならないことが役割かも知れないと考えるようになった。

人間の社会が継続するために、生産活動に携わる人は必要だ。
しかし人々の思いが「生産」という一面のみに集中してしまうと、
「こころ」の問題がおろそかにされていってしまいかねない。
社会の歯車ではない立ち位置から物を見、考え、発信していく。
それが宗教者という役割ではないかと思うのだ。

イエス・キリストは社会の歯車にはまり込んだ人ではなかった。
遊行の旅人であり、ホームレスであった。
「律法」という人々を内面的に縛り付ける枠組みからも自由に生きた人であった。
そんなイエスだったからこそ、人間の生きる営みにおいて大切なもうひとつのこと、
「こころ」の事柄について大切な関わりを果たした人であった。

この春、新たに諸教会に赴任される牧師たちがいる。
「まことの祭司」であるイエスに倣って、
それぞれが大切な働きを担う道が備えられるよう祈りたい。




『 見ないで信じる者 』  ヨハネによる福音書20:24-29(6月10日) 
 
イエスの復活の知らせを告げられて、 
「手の釘の穴に指を入れるまで信じない」と言ったトマスの物語である。 
彼は実証主義者で懐疑論者、不信仰者の象徴のように言われることがある。 
「彼は目に見えるものしか信じようとしなかった。 
 見えないものを信じるのがまことの信仰だ。」と。 
はたしてトマスは、そんなに不信仰な人だったのだろうか? 
 
この箇所以外に、ヨハネ福音書にトマスはあと2回登場する。 
ひとつめはラザロの復活の場面。 
ラザロの住むユダヤに行くことは、イエスを憎むユダヤ人に近付くことであり、 
身に危険を引き寄せることになる... 
そんな理由で他の弟子たちが躊躇した時に、トマスは言う。 
「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」 
 
もうひとつはイエスが最後の説教の中で 
「私はあなた方のために父のところに場所を用意しに行く」と言われた時、 
トマスは「あなたがどこに行かれるか、わかりません。 
どのようにしてその道を知ることができるでしょうか」とイエスに尋ねる。 
その時イエスが答えられたのが 
「私は道であり、真理であり、命である」というあの有名な言葉である。 
 
これらのことを総合すると、トマスはイエスに従うということについては、 
人一倍強い気構えを持っていたことがうかがえる。 
しかしそんな彼でさえ、イエスが十字架に架けられるときは、 
大事な人を見捨てて逃げ去ってしまった。 
自分の弱さに情けなさと悔しさを抱きながら、 
悶々とした日々を過ごしていたのではないだろうか。 
 
そんなトマスがイエスの復活についての噂を聞く。 
自分がたまたま居合わせなかったその時に、イエスが現れたという。 
イエスへの強い思い入れ故に、逆にそれを認めることができなかったのではないか。 
彼がもう少しぼんやりとした弟子だったら、 
案外もっと簡単にイエスの復活を信じたかもしれない。 
「イエスに会いたい」「でも裏切ってしまってもう会えない」 
そんな揺れ動く思いが、拒否の振る舞いにつながったのではないだろうか。 
 
トマスの中には、信じようとしない心と、信じたい心が同居していた。 
これは不信仰なことなのだろうか。 
いやむしろ、信仰とはそういうものなのではないか。 
何の疑いもはさまずに信じるというのは、むしろ危ういように思う。 
信じる気持ちと疑う気持ちの間に揺れ動く心境こそが、 
実は本当に地に足の着いた信仰と言えるのではないか。 
 
そんなトマスの前にイエスが現れ、「手の穴に指を入れなさい」と言われた。 
どんな表情で言われたのか想像してみたい。 
厳かな表情で、低い声で語られたのならば、それはある意味とても怖い体験だ。 
いささか当て付けのようにも、あるいは恨み言のようにも受けとめられる。 
 
しかし、ほがらかに微笑みながら、 
揺れ動くトマスの気持ちを包み込むように見つめるイエスの姿がそこにあったならば、 
それはトマスにとって救われる体験となったはずだ。 
そんな体験は、きっと彼を「見ないで信じる者」へと変えていったことだろう。 




『 まん中に立ちなさい 』  マルコによる福音書3:1-5(6月17日 こどもの日合同礼拝)

ある日イエスさまが、教会にやってきた「片手の萎えた人」を癒されたお話です。
「すごーい!イエスさまにはそんな超能力があったのか!」と思いますか?
不思議なことですね。でも今日はそのことには触れません。
注目したいのはその片手の萎えた人にイエスさまが語られた言葉です。

 「まん中に立ちなさい」。

イエスさまはそう言われたのです。

身体の不自由な人や重い病気の人のことを、昔の人たちはこんな風に考えていました。
「本人か、親・祖先が悪いことをしたのでバチが当たったのだ」。
今ではそんな考え方をしてはいけないことを多くの人が分かっていますが、
聖書の時代には残念ながらそう考える人がほとんどでした。
周りの人からそんな風に見られているのを感じて、
その「片手の萎えた人」は教会の中でも隅っこの方にいたことでしょう。

そんな彼に、イエスさまは「まん中に立ちなさい。」そう言われたんです。
「そんな隅っこにいることはない。まん中に立ちなさい」。
これはその人に向けての人生肯定の言葉、
「あなたはあなたのままでOKだよ!」という宣言だと思うのです。

ステファニー・ジャーマノッタさんというイタリア系のアメリカ人がいます。
現在27歳の女性ですが、子どものころは背が低いのと、
ユニークな性格だったことで、いじめられることがよくあったそうです。
ひどいいじめを受けて泣きたかったけど、泣いたらよけいに辛くなると思って、
ケラケラ笑って見せながら心の中では泣いている。そんな毎日を送っていたそうです。

そんな彼女を支えたひとつの言葉があります。
夜、寝る前に毎晩お母さんが語ってくれた言葉です。

「人は誰でも自分の人生においては、スーパースターになれるのよ。
 神さまは決してお間違えにならないから」。

この言葉を支えにして、ステファニーは辛いことにも耐えて生きることができました。
歌うことが好きだった彼女は心に決めました。
「いつか有名になって、私を支えてくれたお母さんの言葉を歌にしよう」。

やがてプロの歌手になれましたが、最初は売れなかった。
「そうだ!“ステファニー”という名前がよくないんだ。もっと印象的な芸名にしなくっちゃ!」
そうして名前を変えてみた。すると次々にヒット曲が生まれ、超有名になりました。
そしてついに彼女は、あのお母さんの言葉を歌にすることができたのです。

誰のことか分かりますか?

本名、ステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタ。
彼女が大好きだったイギリスのロックグループの曲名からつけられたステージ・ネーム,
それは...“LADY GAGA”。
お母さんの言葉の入った歌は“Born this way (この道に生まれて)”。

幼いステファニーを支えたお母さんの言葉は、
イエスさまの「まん中に立ちなさい」という言葉と同じ響きを持っていると思います。

神さまのまなざしの中では、この世に必要のない人間など、ひとりもいないのです。




『 ここからはじめる 』  ヨハネによる福音書21:1-13(6月24日)

イエス・キリストと弟子たちとの三度目の出会いが記されている。
一度目はエルサレムで、弟子たちが家に鍵をかけて閉じこもっていた時。
イエスを十字架につけたユダヤ人を恐れて、隠れていた時だ。

二度目は「手の釘の穴を見るまでは、主の復活など信じない」
そのように言ったトマスに姿を現された時。
この時も弟子たちは家に鍵をかけて閉じこもっていた。

三度目の今回、場所も状況も大きく変わる。
場所はエルサレムではなく、
イエスや弟子たちの故郷であるガリラヤにおいてであった。
師を失った不安と失意を抱えながら、
弟子たちはエルサレムからガリラヤに向かったのである。
恐らく重い重い足取りをたどりながら。

そんな風にして戻ったガリラヤで、彼らが最初にしたことは何だったか?

ペトロは言った。「わたしは漁に行く」。
ペトロはイエスの弟子になる前は、ガリラヤで魚を獲る漁師であった。
漁をすること ― それはペトロにとって、
かつての自分の生業を再び始めることであった。

イエスの弟子として「網を捨てて」歩んだ3年間は、
ペトロにとってきっと特別な日々だったことだろう。
イエスと共に人々と出会い、イエスと共に神の国を目指した歩み。
心が熱く満たされ、感動と興奮を常に感じるような毎日がそこにあった。
しかしその歩みも、イエスの十字架によって大きく損なわれてしまった。

失意の中にあった彼が、復活のイエスと2度出会うという体験の後、始めたこと。
それはあのイエスと共に歩んだ特別な日々を再現することではなく、
まずは自分の日常を取り戻すことであった。
漁をするために船を出す。自分に出来ることをする。
「ここからはじめる」。
そこにイエスとの3度目の出会いがあった。

イエス・キリストに従うということ。
それは決して特別な、立派な歩みを重ねることではない。
自分の日常を誠実に歩む中で、自分にできることをする。
そこからはじめればいいのだ。




『 大切な水 』       民数記19:11-13(7月1日)

6月末にボランティアのために仙台を再訪した。
今回のワークで改めて感じたのは「水の大切さ」だ。
ある農家の畑では、昨年は津波をかぶった後だったので作物が十分実らなかったが、
今年は収穫が見通せる状況だという。
「雨の水が塩を抜いてくれた」とご主人が語っておられた。

一方、津波で大半の家が流された場所で、喫茶店を始められた女性がおられた。
周りにほとんど家がない状況、しかも数年後には立ち退かねばならない中で、
それでも希望を繋ぐシンボルにしたいと開店を決められた。
「電気と水道が一緒に回復したので助かった。水があったから帰ってこれた」と言っておられた。

民数記の今日の箇所の前後には、水の話がいくつか出てくる。
日本のような水の豊かな国に比べて、周りを荒野に囲まれたパレスチナでは、水は貴重品であった。

前半は「清めの水」についての決まりごとである。
人々の罪を贖うための「犠牲の供え物」。
それを屠る儀式を行う祭司は、それをすることによって「ケガれ」を身に負うとされていた。
いわば人々を救うために、自分は犠牲を負うという役回りである。
そんな人々のために、古代イスラエル社会は「清めの水」を用意していた。

日本にも同じように、人々の暮らしに必要な仕事であるにもかかわらず、
それがみんなのいやがる仕事であるために、それをする中で謂れのない差別を受ける人々がいる。
わたしたちの社会は「清めの水」を準備しているだろうか。

後半の箇所は、モーセによる「メリバの水」という出来事である。
「水がない!」という民の不平にどう応ずるか。
モーセが祈ると神が示されたのは岩に向かって「水よ出でよ!」と命ずることだった。

モーセはその通りに実行しようとしたが、余分なことをしてしまった。
岩に向かって命じるだけでよかったのに、手にしていた杖で岩を2度打ってしまったのだ。
このことによりモーセは神の咎めを受け、約束の地・カナンに入ることを許されなくなってしまう。

「たったそれだけの理由で?」と私たちは理不尽さを感じる。
そう、旧約聖書の神は時に理不尽な存在に思える。
けれどもモーセのそのような理不尽な犠牲と引き換えに、民は大切な水=救いを得る。
聖書は、「人が救われる背後には、誰かの理不尽な苦しみが必要になることがある」
そんなことを語ろうとしているのかも知れない。

現代社会にも理不尽な苦しみを負わされる人々がいる。
その出来事を通して私たちが「大切な水」を得ようとしなければ、それは不毛な苦しみに終わる。
私たちは「大切な水」を求めているだろうか。
それによってもたらされる大切な水、即ち「救い」とは、
私たちにとってどんなものなのだろうか。




『 三度目の問い 』  ヨハネによる福音書21:15-19(7月8日)

同じことを何度も何度も言われることは、あまり心地のいいことではない。
しかしそのような思いが起こることを承知で、
敢えて同じことを何度も繰り返すやりとりというものがある。
そこには必要な情報を問う/伝える、といったことを越えた、
もうひとつ別のメッセージがあると言えるだろう。

息子が仙台・エマオのボランティアのために休学を申し出たとき、条件を三つ出した。
その一つが「やりくりをして車の免許は必ず取ること」であった。
震災直前に教習所に入所していたのを、無駄にさせたくなかったからだ。
正直に言えば、安くはない入学金を払ってやったことを無駄にしたくなかったのである。

以来、会う度に「免許は取ったか?」と繰り返した。
私だけでなく、息子に会う人に尋ねるよう頼んだ。
息子にとっては正直「またかよー!」という気になっただろう。

半年後、息子はめでたく免許を取得した。
するとそれが救援活動で大変役に立つようになったという。
「うるさいな、めんどくさいなと思ったかも知れんけど、
免許取っておいてよかったやろう?」と聴くと、「うん。」と答えた。

本当に大切なことは、相手がどう思おうが言わなければならないことがある。

今日の箇所で、イエスはペトロに同じことを何度も訊いている。
「あなたはわたしを愛するか」。
十字架の直前にイエスを裏切ってしまったペトロにとって、これは辛い質問だ。
「イエスが3度問われたことは、ペトロが3度否認したことと対応する」とも言われる。
その通りだとしたら余計辛いこと、まるで拷問のようだ。

しかし日本語では同じやりとりが3度あるように読めるが、
言語のギリシャ語では少し味わいが異なるやりとりが浮かび上がる。
イエスの1回目・2回目の問いにおいて、
イエスが神の愛を表わす「アガパオー(アガペー)?」という言葉で問われたのに対して、
ペトロは人間の友愛を表わす「フィレオー」という言葉で答える。

しかし3度目の問いは、イエスの方から「フィレオー?」と語っておられるのだ。
それは「あなたの人間的な愛でいいから、それを大切にして私に従いなさい」
そんなイエスからの呼びかけではないかと思うのだ。

イエスは続いて、「あなたは行きたくないところへ連れて行かれる」とも言われた。
それはペトロの最期を予言することであったと記される。
ペトロはその後初代教会の指導者となり、皇帝ネロの迫害によって殉教したという。
伝説によると「主イエスと同じ十字架にかけられるのは畏れ多い」といって、
自ら願い出て「逆さ十字架」=より辛い処刑方法によって絶命したという。

あの血気盛んで、でも肝心の時にだらしなかったペトロが、なぜそのように変わったのか。
「あなたの姿のままいいからで、私に従いなさい」
あのイエスの3度目の問いが、ペトロを変えたのではないかと思う。




『 自ら生み出すエネルギー 』  ルカによる福音書12:15-23(7月15日 第3礼拝)

7次にわたる「エネルギー革命」によって、
様々な便利さと物質的な豊かさを手に入れてきたのが人類の歴史である。
(①火を手なずける ②農業と牧畜の発達 ③金属の利用 ④火薬の発明
 ⑤石炭と蒸気機関 ⑥石油と電気 ⑦原子力とコンピューター)

人類の進歩と調和。便利で豊かな暮らし。
それらのものがバラ色の未来を約束してくれる...
わたしたちはそう信じて生きてきた。

しかしその歩みがたどり着いた一つの現実が、
例えば東日本大震災による福島第一原発の事故である。

15万人もの人が住む家を置いて非難することを余儀なくされ、
いつ故郷に帰れるか分からない状況を生み出してしまった。
「全体安全だから大丈夫」という「安全神話」は跡形もなく崩れ去った。

事故を起こした原発が、制御不能の状態に陥ってしまったのは、
海水注入のタイミングを間違ったからだという分析がある。
海水を入れれば廃炉にしなければならない...
→ そうすると大きな損失を負うことになる...
→ だから判断をためらってしまった...。
「いのち」のことよりも「経済(お金)」が優先する発想がそこにある。

今日の聖書箇所の後半はよく知られたイエスの言葉である。
「何事にも思い煩わず、神に生かされていることを感謝して生きる」。
そんな信仰を表わす言葉として、愛唱聖句に選ぶ人も多い。
しかし直前に語られているのは、あらゆる貪欲を戒めるイエスの教えだ。
この二つの言葉は別々のものではなく、セットにして受けとめるべきものではないか。

7次のエネルギー革命の最後に来たのが、原子力エネルギーである。
しかし第8次の革命はもう始まっているのかも知れない。
それは自ら生み出すエネルギーを大切にして生きる道だ。
太陽光発電などの自然エネルギーに具体的に取り組みこともあるだろう。
しかしもっと簡単に始められることがある。

それは自分が発電所になることだ。
ただし電気を作るのではない。使う電気を減らすことだ。
ひとりひとりの取り組みは小さくても、その節電量が発電所一基分になれば、
ひとつの発電所を建てたのと同じことになるという理屈である。

その取り組みを進めるために必要なこと、
それは自分の中にある「貪欲」と闘うことではないか。




『 イエスの愛された弟子 』  ヨハネによる福音書21:20-25(7月22日) 
 
足かけ3年にわたって取り上げてきたヨハネによる福音書によるメッセージも、 
今日の箇所が最終章である。 
そこに記されたのは、ヨハネ福音書にたびたび登場する 
「イエスの愛しておられた弟子」と呼ばれる弟子のことである。 
 
最初に登場するのは、最後の晩餐の場面。 
イエスが弟子のひとりの裏切りを予告された時、 
「主よ、それは誰なのですか?」と尋ねるシーンである。 
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』では女性の姿で描かれている。 
 
次はペトロの「三度の否認」の場面。 
ペトロとこの弟子とが、裁判のため引かれるイエスに従ったが、 
ペトロが入ろうとしなかった大祭司の中庭に、 
この弟子は入り、ペトロを招き入れたという。 
「この弟子は大祭司の知り合いであった」と記されている。 
 
次がイエスが十字架にかけられた場面。 
イエスの母マリアが悲しみをこらえつつ佇んでいると、 
イエスはこの弟子の方を見、母マリアに向かって 
「ご覧なさい、あなたの子です」と言われ、 
弟子には「ご覧なさい、あなたの母です」と語りかけられた。 
その時から「この弟子はイエスの母を引き取った」と記されている。 
 
さまざまな重要な場面に登場する、この「イエスの愛された弟子」とは誰か? 
実はその人こそヨハネによる福音書の著者ヨハネだとされる。 
 
イエスの弟子にヨハネという人物がいた。 
イエスの「山上の変容」の目撃者であり、 
「雷の子」と呼ばれるような、すぐに頭に血の上る熱血漢でもあった。 
しかしそんなヨハネのような「熱い思い」を抱いた弟子が、 
イエスは好きで好きでたまらなかったのではないか。 
なぜならかつてイエスにも、 
同じような熱い思いを抱いて過ごした若き日があったと思うからだ。 
 
そんなヨハネも、イエスと出会い、その愛を受ける中で、 
おだやかな心を持つ人間へと変えられる。 
自分のことを「イエスの愛された弟子」と自称することは、 
一見図々しく思える行為である。 
しかしその背後には、実はそんな訳があったのではないか。 
 
そんなヨハネの記した福音書によって、 
私たちはイエス・キリストの生涯の一断面に出会うことができるのである。 
 


 
『 世界は神の愛にふさわしいのか? 』  ヨハネによる福音書3:16-21(7月29日) 
 
3年にわたって続けてきたヨハネ福音書によるメッセージも、今回が最終回。 
出来事やドラマよりも、どちらかというとイエスの説教が中心のこの福音書は、 
私にとってはなかなかの難関であった。 
今回その学びを終えるにあたって、この福音書の最も中心的なメッセージは何かと言うと、 
それは「神の愛」と「霊の導き」ではないかと思う。 
これは礼拝での祝祷の度ごとに祈り求めているものでもある。 
 
ヨハネ3:16はその中心の中心とも言うべき言葉である。 
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。 
この世界は神の愛の注がれた対象だということである。 
しかしみんながその愛に気付いていられるわけではない。 
その愛に気付けるよう、聖霊の導きを祈る。 
そのことの大切さをヨハネは伝えようとしている。 
 
このヨハネの呼びかけに対する、私たちの信仰の応答は何か? 
それはそのように示された「神の愛」を感謝して受けとめ、 
そしてそれを忘れないように「聖霊の導き」と祈り求め続ける... 
ということになるのであろう。 
確かにそれは大切な信仰の課題である。 
 
しかしこの学びを終えるにあたって、私はもうひとつのことを思う。 
それはそのように示されたこの世界に対する「神の愛」、 
それを私たちはただ感謝して受けるだけでいいのか?ということである。 
「この世界は本当に神の愛にふさわしいのか?」 
そのことも同時に考えなければならないのではないだろうか。 
 
そして、もしもこの世界に、神の愛にふさわしいとは言えない現実に気付いたならば、 
それを少しでも変えようとする努力を重ねてゆく。そのために聖霊の導きを祈る。 
それがいまこの時代にあって、 
ヨハネのメッセージに応える信仰の道のりなのではないだろうか。 




『 土地をめぐる争い 』       民数記20:14-21(9月2日) 
 
日本と韓国・中国との間での「領土問題」をめぐるいざこざが続いている。 
竹島や尖閣諸島は、土地という意味ではそれほど大きな利用価値があるわけではない。 
あの土地にかつて住んだことがあり、 
郷愁やアイデンティティを感じている人が主権を主張しているわけでもない。 
そこにあるのは「領海」という発想であり、 
漁業権や地下資源の利用権をめぐっての争いである。 
 
動物の中も「なわばり」を持つものがある。 
しかしその範囲は自分と家族のエサがまかなえる範囲である。 
「食欲」は肉体の欲求であり、それにはおのずと限度がある。 
しかし人間の領土争いは「欲望」をベースにしている。 
「欲望」は脳の中の出来事であり、それには際限がない。 
 
領土問題に始まり、隣家との境界線をめぐるやりとり至るまで、 
人間は土地をめぐる争いを起こしやすい生き物だとつくづく思う。 
領土問題をめぐってはすぐにナショナリズムに火が付き、熱くなる。 
「なめられるな!」「弱みを見せるな!」。 
しかし少しズームオフして考える時、あんな小さな岩礁をめぐって争い、 
戦争まで起こすのは、大変愚かなことなのではないだろうか。 
 
今日の箇所にも土地をめぐる争いが記される。 
エジプトの奴隷から解放されたイスラエルが、 
旅の途中エドム人の土地を通らねばならなくなり、 
通行の許可を得ようとしたところ拒絶された。 
おかげでイスラエルは大きく迂回路を取らねばならなくなった。 
エドム人の土地所有への執着が、イスラエルに不利に働いた。 
 
しかし一方のイスラエルも「約束の土地」カナンへの執着を示し、 
最終的には武力で攻め込んでこれを手にしたことが記されている。 
現代のパレスチナ問題の発端もここにある。 
人間はほとほと土地をめぐる争いを起こしやすい生き物だ。 
 
しかし旧約聖書には、現代の私たちにとって一考に値する土地の所有をめぐる発想がある。 
それは「土地の所有に関しては人間にもともとその権利があるのではなく、 
土地はまず神さまのものであり、人間はそれをゆずり受けているに過ぎない」という 
「嗣業」という考え方である。 
この発想をベースに、50年に一度すべての負債をリセットする 
「ヨベルの年」というシステムも機能していた。 
「土地の所有権は人間にはない」と考えていたから成り立つ制度である。 
 
古代イスラエルと現代の社会とを簡単に比較はできないのかも知れない。 
しかし領土問題によって紛争が起こり、自由競争によって格差が広がる現状の中、 
その精神には学ぶものがあるのではないか。 
 
いま私たちは改めて、イエスの語られた教えを大切に思いたい。 
「どんな貪欲にも注意を払い用心しなさい。 
 あり余るほどの物を持っていても、 
 人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15)。 




『 イエスの生涯、キリストの誕生 』  ルカによる福音書1:1-4(9月9日)

本日より、新しくルカによる福音書によるメッセージを始める。
ルカは四福音書の中では、分量としては一番多い書物である。
今日はその概略を説明したい。

冒頭の文章を見ても分かるように、
この文書はローマの高官・テオフィロという人物に向けて書かれたものである。
使徒言行録の冒頭にも同様の検定の言葉があり、
ルカと使徒言行録は上下巻からなる一続きの文書であることが分かる。

著者とされるルカという人物は、パウロの手紙の中にも何度か名前が登場する人であり、
パウロと共に伝道活動を展開したらしい。
使徒言行録の16章から、文章の主語が「彼ら」から「わたしたち」に替わる部分があり、
この期間ルカはパウロの伝道旅行に同行したのではないかと考えられている。
コロサイ書によると、彼は医者であったとされる。

ルカ福音書の特色を一言で表すならば「旅空を歩むイエス」ということになるだろう。
ガリラヤからエルサレム、エルサレムからローマへと、
キリストの福音が「世界」へと広がっていく...そのような世界観がルカにはある。
そのため、イエスの復活の場所が、マタイ・マルコではガリラヤであるのに対し、
ルカではエルサレムとなっている。

もうひとつルカに特徴的なことは、
財産持ち・金持ちにはかなり厳しい教えが含まれていることだ。
ルカにとって理想の共同体とは、使徒言行録の2章や4章に記されるような、
持ち物を持ち寄って共有し、必要に応じて分配する「原始共産制」であった。
財産に執着することは、神の国にふさわしくない、とルカは考えていたようだ。

遠藤周作はルカ福音書・使徒言行録を題材として
「イエスの生涯」「キリストの誕生」という連作を書いた。
「イエスの生涯」がルカ福音書、「キリストの誕生」が使徒言行録という内容だ。
あとの方の書名に違和感があるかも知れない。
しかしそこには、使徒たちの宣教活動によって、
イエスはキリスト(救い主)として信じられるようになったという主張がある。
つまり、イエスの生涯を、「救い主の足跡」と後になって信じる人々の中で、
はじめてキリストは誕生した、ということだ。

そんなルカのナビゲートによって、イエスの生涯をたどる新たな歩みを始めよう。




『 異なる調べが響きあう 』  コリント第一12:4-11(9月16日・第3礼拝)

今日の第3礼拝では、神戸室内アンサンブルICMの皆さんの
コーラスを聴かせていただいた。
コーラス、ハーモニー、それは人間が神さまかいただいた豊かな贈り物、宝物である。
動物たちも鳴き声を響かせる。中には絶妙の声で歌うものもいる。
しかし、これほど複雑で絶妙なハーモニーを重ねることができるのは、人間だけである。
人間は自然界の中でとりわけ「知性」が発達した生き物である。
ハーモニーの豊かさはこの知性と関係があるのかも知れない。

コーラスは異なる調べを響かせ合う調和が、その豊かさの源泉である。
同じ一つの歌をうたい、同じ気持ち同じ方向性を目指しながら、
それぞれが少しずつ違う役割、違う働きをする。そこに素晴らしい豊かさが生まれる。
それは私たち人間が、社会や共同体といった人の集まりの中で
「共に生きる」ことを目指すとき、大切にしなければならないテーマに通じるものがある。

人が共に生きようとする時、大切にすべきことが二つある。
一つは「我々人間はみんな同じ」ということである。
肌の色、話す言葉、人種や性別が違っても、同じ人間。
人を愛する気持ちはみんな同じだし、同じ赤い血が流れている人間同士である。
「違い」が差別や偏見を生み出さないように…これが一つ目の課題である。

二つ目は、この一つ目の課題を大前提とした上で、
ひとりひとりの人間は「みな違う」ということである。
みんな少しずつ違う個性を持ち、違う賜物を与えられている。
それを否定し合ったり、打ち消し合ったり、
「みんな同じでなければならない」と一色に染めようとするのではなく、
それぞれの違いを認め合い、尊重し、生かし合う。
そこに豊かさが生まれるのである。

聖書は、ひとりひとりの違う賜物は、同じ神さまから与えられたものであり、
裁き合ってはならない、と語る。
そしてひとりひとりの人間を、身体の部分にたとえて、
異なる働きが一つの身体を形作ると教えている。
「みんなおなじ、みんなちがう」。
それがイエス・キリストの教えられた「共に生きる」ということなのである。




《 メッセージ 》『 生意気な少年 』  ルカによる福音書2:41-52(9月23日)

イエスの少年時代のことを伝える唯一の箇所である。
他にも偽典のトマス福音書に多数の記述があるが、
いずれもイエスの神童ぶりを誇張する荒唐無稽なトンデモ話である。
それに比べてルカのものは、出来事としては十分あり得るお話である。

旅の途中はぐれてしまって、両親が心配していたのに意に介さず、
神殿で賢者たちと語り合っていたイエス。
マリアが「なぜこんなことを...私もお父さんも心配してたのに...」と咎めると、
「どうして探すの?神さまの家(神殿)にいたのに」と答えたという。
何とも「生意気な少年」の振る舞いである。

この物語はいったい何を伝えているのだろうか?
「栴檀は双葉より芳し」という諺があるが、そのようなことが言いたいだけなのだろうか?
もう少し物語を読み込んでみよう。

「両親は過越祭には毎年エルサレムに旅をした」(41節)とあるように、
それは年中行事の一つであり、イエスにとっても慣れた道のりだったかも知れない。
また、帰りにイエスの姿が見えない時「道連れの中にいるものと思い...」とあるように、
親子三人の旅ではなく、一族郎党連れ立っての旅であったことも分かる。

「12歳の子どもがひとりで動けるわけがない。」と子どもの力を見くびる思いや、
「きっと誰かにくっついているだろう」という決めつけがあったとも言える。
それにしても、姿が見えなくなってもまる一日不在に気付かず、
エルサレムに戻って探し当てるまでに3日も要したということは、
今の時代では逆に「親の監督責任」が問われるような事態である。

しかし、このイエスが「見えなくなった」日数が3日であったということ、
そして再会した場所がエルサレムであったということは、
ルカの描くイエスの生涯において大切な「ある事」を示唆している。
それは「イエスの死と復活」である。
ルカはイエスの生涯の初めにこの物語を記すことを通して、
イエスの生涯の最大の出来事を予型的に語ろうとしてるのかも知れない。

最後にひとつ、この箇所から学びたいもう一つのこと。
それは、こども期から思春期に至る少年の、純粋でまっすくな感性だ。

 「わたしが父の家にいることを知らなかったのですか?」(49節)

この言葉から、神と世界とに対するすなおな信頼を学びたい。




『 悔い改めにふさわしい実を結ぶ 』    ルカによる福音書3:1-14(9月30日)

古いこどもさんびか「ことりたちは」の3節に、こんな歌詞がある。
「わるいことはちいさくても、おきらいなさる神さま」。
ところが原曲の歌詞を見ると「何が良いか悪いか分からない幼な子のために、
神さまは母の愛を呼び覚まされます」となっている。
翻訳の過程で、その時代の日本のクリスチャンの福音理解が反映したと考えられる。

それは「クリスチャンは清く正しく美しく、
罪から離れて品行方正に生きなければならない」というものだ。
しかし福音書のイエスの教えに特徴的なことは、
罪の裁きではなく、むしろ赦しである。
自分ではどうすることもできない悪しき部分、
それを高みから切って捨てるように断罪するのではなく、
受け入れ赦して下さる神の愛。それがイエスの福音の本質ではないか。

もちろんそれは「罪を犯したままでよい」ということではない。
イエスは他方では悔い改めの大切さも説かれた。
ただその迫り方が、当時の律法学者たちや、バプテスマのヨハネとは異なるものだった。

バプテスマのヨハネは、イエスの先駆者である。
その厳しい教え、激しい言葉に圧倒されて、
多くの人が彼の下で罪を悔い改め、洗礼を受けた。
ヨハネにとってメシア(救い主)とは、
「天の力を帯びて人々の罪を裁くお方」というイメージであった。
しかしイエスの活動は、ヨハネのような「厳しい北風」のようなものではなく、
むしろ「暖かな太陽」のようなものであった。
イエスはまず罪びとを受け入れ、赦すことによって悔い改めに導かれた。

では、ヨハネのような厳しさは、もはや必要ないものなのだろうか?
そうではない。
世の中の指導者すべてがヨハネのような人であれば、
その息苦しい世界では救われない人も出てくるだろう。
しかしすべてイエスのような人になったとしたら、
それはそれでしまりのない社会になってしまうような気がする。
人間の成長のためには、ある種の厳しさはどこかで必要である。
ヨハネにはヨハネの役割がある。

「悔い改めにふさわしい実を結べ」とヨハネは語る。
しかしその内実は、決して達成困難な課題ではない。
11-14節に記されたヨハネの言葉を要約すれば、「平等に生きよ」ということである。
自分を律する努力は必要だが、クリアするのが不可能なハードルではない。

自らの罪を顧み、平等な生き方を目指すこと。
それがヨハネが私たちに示す「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」である。




『 神にさかのぼる歴史 』  ルカによる福音書3:23-38(10月7日 創立59周年記念礼拝)

創立59周年の礼拝にあたり、私たちの教会のルーツを想い起したい。
東神戸教会は戦後、灘市民生協に集まった人たちが行なった聖書研究会に端を発する。
集まったのは「社会的基督教」というムーブメントに加わった面々で、
賀川豊彦の影響を受けた人たちである。
荒廃した戦後日本において、賀川の「共生、共愛」の精神を基に
新しい社会を築こうという理想に溢れていたという。

「共生・共愛」の生活協同組合であるならば、単に商売を展開するだけでなく、
文化的な活動も大事にしようということで、「文化部」が設けられ、
賀川の精神を継承するために聖書研究会が始まった。
せっかく集まったのだから礼拝もしようということになり、
各地を転々として礼拝をささげた。
やがて土地を取得し、建物を建て、宗教法人格を得たのが、1953年10月1日。
この日を東神戸教会の創立記念日と定めている。

この東神戸教会のルーツを象徴するのが、
礼拝堂正面に掲げられた「戦後日本に再臨するキリスト」(田中忠雄作)の絵である。
ここには「もし今、主イエスがここにおられたら、どのような生き方をされるだろうか。」
その問いを常に身に帯びながら信仰の歩みを重ねていこうという
創立当初の信徒たちの思いが表れている。
9年前の創立50周年の時には、その精神を基にオリジナル賛美歌
「What would Jesus do?(もしも主イエスがいまここにおられたら)」が作られた。

創立記念日などの機会に、
その教会や組織の成り立ち・ルーツを振り返ることがよくある。
そうすることの意味は何だろうか。
「原点回帰」という点もある一方で、
「過去にとらわれずに未来を目指せ」という言い方もなされる。
しかし、過去を「なかったこと」にはできない。
人間は時間の概念を持ち、過去・現在・未来と連なる物語を意識しながら
生きることが宿命づけられている存在である。

ルカとマタイの福音書の冒頭には、イエス・キリストの系図が記される。
比較してみるとまったく異なる系図である。
そこには、マタイ、ルカ、それぞれの著者の意図が反映されている。
マタイのそれはアブラハムを起点とし、
「イスラエルの中に生まれたイエス」を表わしている。
ユダヤ人キリスト者に向けて書かれ、ユダヤ人の奮起を願うマタイの思いが表れている。

しかしルカの系図は「神にさかのぼる」壮大な系図である。
大きなスケールで世界の歴史をとらえていたルカの視点。
そこには宗教という世界が指し示す大切な指摘がある。

現在しか見えていない時に、私たちの視野は狭窄となる。
しかし自分という存在を大きな世界の広がり・永い時間の軸の中で考えてみる時、
世界が少し変わって見えてくる。
それこそ信仰という営みが与えてくれる新たな視点である。

ルカの大きな視点の受けとめ、
私たちもまた「神にさかのぼる歴史」のただ中を歩みたい。



『 神の声に従う 』   民数記22:15-21(10月14日)


「バラクとバラムの物語」と呼ばれる民数記の一節である。大変奇妙な物語である。
モアブの王・バラクは、荒野を勇壮に進軍してくるイスラエルの噂に恐れをなしていた。
そこで著名な預言者・バラムを呼んで、彼にイスラエルを呪ってもらうよう依頼した。

バラムは「私は主が望まれることしかしません」と答え、
実際に「この民を呪ってはならない」という神の声を聞き、バラクの依頼を退けた。
バラクは再度使者を送り、
「お願いを聞いてくれたら何でもします。何でも差し上げます」と迫った。

結局バラムはバラクのもとに出かけることになるのだが、
途中の道で自分のまたがるロバによって主の御心を知らされ、
イスラエルに対して呪いではなく祝福を祈るという結果に至る。
このためバラクは激怒し、バラムを追放処分にしてしまう。

このような推移を見ると、バラムは決して悪者ではなく、
むしろ異邦人でありながら主の御心に従う心を持っていた人のように見受けられる。
ところが、新約聖書におけるバラムへの評判は、大変厳しいものである。

「バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。
 この者は、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、
 彼らには深い暗闇が用意されているのです。」(第2ペトロ 2:13-16)

この言葉のように、彼の名前が出るすべての箇所で酷評されているのだ。
(他にユダの手紙10-11節、ヨハネの黙示録2:14)

民数記の記述の続きには、バラムがイスラエルの人々を惑わせる行為をしたことが記される。
彼は、当初「神の声を聞く」振る舞いをしながら、次第に欲にかられて心が変節し、
最後には主に背いた人物として受けとめられたのだろう。
「偽の道を知っていながらその道から離れ去るよりは、
 最初から義の道を知らなかった方が、彼らのためによかった」(第2ペトロ2:21)。

「神の声に従う」とはどのようなことなのだろう?
私たちはつい自分の欲望を神の声に重ねようとする。
しかしそうではなく、自分をむなしくして、
心の中の良心や謙虚さを呼び覚ましてくれるものとして神の声を聞くものでありたい。




『 誘惑に打ち勝つ力 』  ルカによる福音書4:1-13(10月21日)

東神戸教会に赴任したての頃、愛餐会のテーブルにワインが置いてあるのに驚き、
自由な雰囲気の教会の特徴を感じさせられた。
一方では飲酒を固く戒めている教会も少なくない。
お酒の席につきまとうはめを外した雰囲気が、
神に向かうピュアな気持ちを妨げるものと捕えるからだろう。
しかしそんな教会でも、別の形での嗜好品の楽しみ(コーヒー等)は
認められているところが多いのではないか。
禁欲と祝祭。人間はその間を揺らぎながら生きている。

イエス・キリストは禁欲を強制する社会にあって、自由に振る舞い飲み食いされた。
人が与えられた人生をいきいきと生き、命を祝うこと。
それがイエスの行動や発言のひとつの源泉だ。
しかしイエスは、自由を求める人間の心が誘惑に陥りやすことも見据えておられた。

今日の箇所はイエスが宣教を始める前に、荒野で修業をされた時の出来事である。
イエスは荒野で40日間断食をし悪魔から誘惑を受けられた。
「40」という数字は聖書では意味のある数字である。
試練をくぐり抜けて新しい世界が立ち上がる期間。
ノアの箱舟の大雨が40日、出エジプトの民が荒野をさすらったのが40年。
レント(受難節)の日数も、イエスの断食の日にちなみ40日である。

断食を終えたイエスに、サタンは三つの誘惑をさらに加える。
「この石をパンに変えてみたらどうだ」
これは肉体の欲求に対する誘惑。
「私を拝めば世界中の栄華をお前にやろう」
これは名誉欲・支配欲といった、精神的な欲望に対する誘惑。
「神殿の屋根から飛び降りたらどうだ。神は助けてくれるはずではないか」
これは神に祈るという宗教的な営みに対する誘惑。
すなわち「神を我が意のままに動かそうとする欲望」への誘惑だ。

これらの誘惑にイエスはすべて打ち勝った。
誘惑をはねのける度ごとに、イエスは聖書の言葉を引用しておられる。
イエスにとって誘惑に打ち勝つ力は、聖書の言葉によって与えられたものであった。

私たちはふつう、誘惑に打ち勝つには良心とか信仰が必要だと考える。
しかしそのような「自分が持ってるもの」というのは案外もろいものではないだろうか。
知らず知らずのうちに誘惑に陥ってしまう私たち。
そんな我らに力を与えてくれるのは、外から示されるもの、
すなわち聖書の言葉による導きである。




『 故郷の人々の間で 』  ルカによる福音書4:14-30(10月28日)

唱歌「ふるさと」を聴くと誰もが懐かしさを抱かずにはいられない。
しかしそう思うその人とふるさとの関わりが100%「よきもの」かというと、
かならずしもそうは言い切れない。
中には濃密なまとわりつく人間関係から自由になりたい思いを抱く人もいる。
人が故郷に対して抱く感情は、懐かしさと息苦しさ、
暖かさと鬱陶しさという二重性を帯びている。

今日の箇所はイエスが荒野の修業を終えて、宣教活動を始められた時のことである。
ルカはその活動の始まりを、他の福音書とは違ってイエスの故郷・ナザレから始めている。

修行から帰ったイエスが安息日の礼拝でイザヤ書61章を朗読された。
これはバビロン捕囚で絶望し疲れ果てた民に
「油注がれた者(=メシア)」が与えられるという預言である。

イエスは「この預言は、いま成就した」と言われる。
「自分こそ、そのメシア、神によって遣わされた救い主である」という宣言にすら聞こえる。これを聞いた人々はイエスをほめ、その言葉に驚いたと記される。
「これはこれは、大工ヨセフの息子が立派になられたもんだ...」そんな反応だろうか。
そこには故郷の人ならではの親しさはあるものの、少なくとも否定的なものではない。

するとイエスは故郷の人々を挑発するようなことを次々に語り、
「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と言われた。
これに怒った街の人々はイエスを町から追い出し、崖から突き落とそうとした。
一連の出来事を見ると、明らかにイエスの方から喧嘩を売っていようである。
これはいったいどういうわけだろうか?

故郷の人々のイエスに対する賞賛と期待、
そこには他の街にはない熱いものがあったことだろう。
「わが町の英雄」を誇ろうとする思い。
しかしそれは一方で、その英雄を抱え込もうとする力学を生み出す。
「これからわが町のためにいい働きをしてくれるぞ...」。
イエスの「あまりに冷たいのではないか」とすら感じられる言葉の数々は、
そんな風に神の救いをひとり占めしようとする
故郷の人々の心に向けて語られたものではないだろうか。

ルカ福音書にはひとつの交わりの中に安住せず、常に旅を続けるイエスの姿が描かれる。
あるいはひょっとしたら、イエスの正直な思いの中には、故郷の人々や親しい人の間で、
温かな交わりの中でできるだけ長く暮らしたいという思いがあったかも知れない。
しかしそのような郷愁にほだされてしまったのでは、本当に大切なものは世界に広まらない。
それ故に、あえて憎まれ口までたたいて、追放されるような形で活動を始められたイエス。
そこには真実に神の道を伝える人の「孤独」というものが浮かび上がる。

アブラハムは神の召命を受けて、行き先を知らずに住み慣れた土地を離れ、旅立った。
その歩みを神が祝福され、そこから大きな物語が始まった。
人間の精神に革命を起こす出来事は、安住の地からは出にくいことを、
聖書に記された「旅人たち」の姿は示している。

私たちひとりひとりは、実際に旅立つことは難しい現実の中を生きている。
しかしその精神においては、安住の地に安穏とする思いを時に離れて、
孤独の中真実を求めて旅を続けた人々の歩みに、何かを学び、思いを重ねたい。




『 後継者の任命 』   民数記27:12-23(11月4日 召天者記念礼拝)

阪神タイガースの金本知憲選手が引退を表明した。
「まだやれるのに、なぜ?」という思いを抱くが、
「現役にしがみつくことで若手の台頭を阻んではならない」という思いがあったという。
「引き際の美学」を感じる引退記者会見であった。

一方、石原東京都知事(元)は、都知事を辞職して80歳にして国政選挙に臨むという。
「なんで年寄りがこんなことやらなきゃならないんだ。若いヤツしっかりしろよ!」
そんな風に息巻いておられたが、そういう振る舞いそのものが
「若いヤツ」の活動を阻害しているとは考えないのだろうかと思う。

どんな優秀なアスリートでも、辣腕の指導者であっても、
いつか必ずその役割を終え、その任務を次の世代に譲り渡す日が来る。
人間の命は有限であり、命あるものは必ず死を迎える定めである。
その節目をどう迎えるか。これはアスリートや指導者だけではなく、
私たちひとりひとりに課せられた課題である。

出エジプトを果たし自由の道への旅路を歩むイスラエルにも、世代交代の時がやってきた。
奴隷解放以来、ずーっと民を率いて、その旅路を導いてきたモーセ。
しかしそのモーセは、「メリバの水」と呼ばれる事件において
たった一度神の意に背いたことが理由で、
神の与えられる「約束の地」に入ることが許されないというのだ。
「何と理不尽なこと!」と私たちは思ってしまうが、
「神の御心は人間には計り知れない」ということなのかも知れない。

そのことを告げられた時にモーセが心配したことは、
自分自身のことではなく、共に旅を続けてきたイスラエルの民のことであった。
「この民が飼う者のない羊の群れのようにしないで下さい。」
するとそのモーセの願いに応えて、神は後継者ヨシュアの任免をモーセに命じられた。

あれだけの苦労を身に負って人々をまとめ、導いてきたにもかかわらず、
「約束の地には入れない」と宣告されたモーセ。
その残酷とも言える通告を受けながらも、
彼は主が示されたように後継者の任命式を行なった。

彼がもし自分を主人公に人生や世界を見る人だったならば、
その心中は屈辱感や残念な思いに満たされたことだろう。
しかし彼は神を中心に世界を見、
それ故にこの世代交代を静かに納得して受け入れたのではないだろうか。

今日の箇所だけではなく、モーセと共に民を導いてきたアロンの死に際しても
繰り返し語られた聖書の言葉がある。

「彼は先祖の列に加えられる」(民20:26,27:13)。

この言葉の深い意味を味わいたい。

私たちはどうしても自分の目で神の救いを見たいと願ってしまう。
しかし実際には、多くの人は約束の救いを見ることができない。
それでも神の約束を信じる人々の存在によって、信仰は受け継がれてきたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
 (中略)
 この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、
 約束されたものを手に入れませんでした。
 こういうわけで、わたしたちもまた、
 このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、
 すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、
 自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」
             (ヘブライ人への手紙11~12章)




『 間をつなぐ物語 』    ルカによる福音書1:13-25(11月11日)

クリスマスが近付いてきたので、時計の針を少し戻して、
ルカ福音書の冒頭から読み進めていきたい。

ルカは最も多くのスペースを割いて救い主・イエスの降誕物語を記しているが、
それに先立ってもうひとつの誕生物語からその筆を始めている。
バプテスマのヨハネの誕生物語である。

ヨハネの両親となるザカリヤとエリサベトの夫妻は、
長い間子どもが授からないまま年老いていた。
その夫妻に天使によるヨハネの懐妊が告げられた時、エリサベトは言った。
「主は今こそ、わたしの恥を取り去って下さいました。」

ある時代には「当たり前」であった価値観でも、
後の時代の視点では問題とされるものがある(例えば人種差別的な発想など)。
たとえ聖書の言葉であっても、「妻たる者、子を産まぬは恥」という価値観を、
現代に生きる私たちはそのまま承服することはできない。

しかし聖書の時代は「子孫の繁栄こそが神の祝福のしるしである」という価値観が、
当たり前のこととして共有されていた時代であった。

主のおきてを守り、正しく非の打ちどころのない人であるにもかかわらず、
長い間「祝福のしるし」である子どもを授からなかった老夫婦。
そんな夫婦に神の不思議な手が差し伸べられ、待ちわびた子どもが与えられる...。
旧約聖書に親しんだ人ならば、この出来事の類型から必ず想い起こす物語がある。
それは、アブラハムとサラ夫妻の、イサク懐妊物語である。
ルカの伝えるヨハネ誕生物語を読んだ人の多くは、
後にイスラエルの父祖となるアブラハムの物語を想い起したに違いない。

しかし一方で、それはこれから語られる救い主の誕生物語の前ぶれでもある。
いわばそれは、神に選ばれた人・アブラハムと、
神の子・救い主として生まれるイエス・キリストとの、「間をつなぐ物語」である。

思えば、そのようにして生まれたバプテスマのヨハネという人物も、
イエス・キリストの宣教のための、道を整える役割の人であった。
そのヨハネの生きざまを、ルカはやはり四福音書の中で一番詳細に伝えている。
ルカも「間をつなぐ役割」の人だったのかも知れない。
だからヨハネのことに、より多くの関心や共感を抱いていたのではないか。

人にはそれぞれの役割がある。
監督の全幅の信頼を受けて登場する先発投手の役割もあれば、
メンバーの心服を得て最後の締めくくりを担う抑え投手の役割もある。
しかし多くの人には、むしろ「中継ぎ投手」のような役割が託されているのではないか。

自分は決して主人公でも花形でもなく、ただひたすら次の走者にバトンを渡す役割。
しかしそのような地味な役割を担う人の存在があってこそ、
神の救いの出来事は受け継がれていくのだ。

私たちも神の大きな救いの物語の「ひとコマ」を、誠実に担う者でありたい。




『 神さまの前で働く人々 』 
             コリントの信徒への手紙 Ⅰ 3:6-9(11月18日 収穫感謝合同礼拝)

今年も収穫感謝礼拝のために、
会津のクリスチャン農家・斎藤仁一さんの作られたお米を送ってもらいました。
斎藤さんは会津で仲間の人々と「会津立農会」というグループを作っておられます。
「立農会」とは「立体農業研究会」の略です。

「立体農業」とは何か?
これは私たちの教会にも関わりの深い賀川豊彦が提唱した農業のやり方です。
ひとつの作物だけを作るのではなく、複数の作物や家畜を育てることで、
それを立体的に組み合わせる方法です。
作物の要らない部分が家畜のエサになり、家畜や鯉のフンが作物の肥やしになる。
そうすることで「いのちの循環」が生まれます。
まさに「大地にやさしい農業」です。

大地に「やさしくない」農業もあります。
森や林を切り開いて広大な畑・田圃を作り、
機械を導入して大規模に作付をしていくやり方です。
人手がかからず、収益を上げることができます。
化学肥料を使えば作物は大きく育ち、農薬や除草剤で虫や病気も防げます。
でも、虫や病気をやっつける薬が、人間には無害ということがあるでしょうか?
これらの方法は「いのちの循環」を断ち切った、
「大地にやさしくない」やり方です。

立体農業はそれとは正反対のやり方です。
薬で病気を防ぐのではなく、病気に負けない元気な作物を作ります。
虫や草も薬ではなく手を使って取り除きます。
化学肥料ではなく有機肥料で育った作物は、
細胞の密度が詰まっていておいしいのです。

「だったらみんな立体農業でやればいいじゃん!」と思うでしょう?
でもそれをやる人は少ないのです。
なぜならそれは、とても手間のかかるやり方です。
そしてその割には儲からない。だから取り組む人が少ないのです。

ある立農会のメンバーの方のお話を聞いたことがあります。
立体農業の大変さの中で、正直言って誘惑にさらされることがあるそうです。
「農薬使えば楽できるぞ。効率を上げた方が儲かるぞ...。」
でもその誘惑を断ち切らせてくれるものがある。
ひとつは自分の作物を食べる人の顔。
そしてもう一つは「神さまが見てる」という信仰だ。そう言われました。
すごい言葉だと思いました。

今年も神さまの恵みによって多くの収穫が与えられました。
でも神さまだけでなく、神の前で働く人々の力も欠かせないものなのです。
神の恵みと、人の働き、その両方に感謝する心を持ちましょう。




『 悲しみが響き合うところ 』  ルカによる福音書1:26-45(11月25日)

人がかかえる悩みや苦しみ。
それを他人である自分が100%理解することは不可能かも知れない。
しかしそれでも人は、自分の身の上に起こった同じような体験を重ねて、
その人の痛みや苦しみを想像することができるのではないか。

マリアへの「受胎告知」の場面である。
天使に幼子の懐妊を告げられ、マリアはとっさに答える。
「どうしてそんなことがあり得ましょうか。私はまだ男の人を知りませんのに」。
しかし重ねて天使から「その幼子は聖霊によって身ごもったのだ。
神にはできないことはない」と言われると、
「お言葉通りこの身になりますように」と応じた。

古来よりマリアの従順さを示すとされてきた箇所だが、
はたしてそんな風に見ていいのだろうか?
むしろマリアの中にはもっと複雑な思いがあったのではないか。

結婚前の女性が子どもを宿す。
それは当時の価値観の中では様々な批判・中傷に晒されることを意味した。
誰が父親か分からない子を産む母親への世の偏見。
マリアの中には迷い、不安、躊躇...そんな感情が入り乱れていたのではないだろうか。
そんな「ざらつき」を感じつつ、それでも「お言葉通り...」と語る姿にこそ、
生身の人間の息遣いが感じ取れる。

そんなマリアの決断を促した、ひとりの人物の物語がある。
ルカ福音書ではイエス・キリストの降誕物語に先行して記される、
バプテスマのヨハネの誕生物語。その主人公となったエリサベトという女性である。

祭司ザカリヤの妻であった彼女は、長い間子どもを授かることがなかった。
世襲職である祭司の世界では、これは「不幸」なことであった。
彼女自身、そのような自分の境遇を「恥」と呼んでいる(ルカ1:25)。
世間の人々が自分を眺める眼差しの中で、辛い思いで年月を重ねてきた歩みが想像される。

そんな苦しみの中にあった彼女に、神の大いなる恵みが与えられた。
神は悲しみの中を歩む者を決して見捨てられない。
そんなエリサベトの体験が、マリアの決断を促してゆく。

結果的に二人は子どもを産む。
「不思議な紙の大いなる出来事が実現した。
 『不妊の女』には子どもが、『私生児の母』には神の子が与えられた。
 だからそこに祝福があるのだ!」― そういうことなのだろうか?
むしろそうではないメッセージをここから読み取りたい。

マリアとエリサベト、二人の悲しみが響き合った。
そのことが不安と苦悩を乗り越える力となった。
たとえ子どもを産めない身であっても、誰の子か分からない子を宿した身であっても、
神はそれぞれの存在を受け入れ祝福して下さる...。
そんなことを告げ知らせる天使の声だったのではないだろうか。

苦悩するものが孤独の中に捨て置かれるのではなく、
同じ痛みを持つ人との出会いを通して慰めを得、希望を紡ぐ者へと変えられてゆく...。
そんな物語が『救い主の誕生』のプロセスには宿っている。


  よろこびが集まったよりも、
  悲しみが集まった方が、
  しあわせに近いような気がする。

  強いものが集まったよりも、
  弱いものが集まった方が、
  真実に近いような気がする。

  しあわせが集まったよりも、
  ふしあわせが集まった方が、
  愛に近いような気がする。

        (星野富弘)




『 神をあがめる生き方 』  ルカによる福音書1:46-56(12月2日)

今日の箇所「マリアの賛歌」は、「マニフィカート」というタイトルで親しまれ、
賛美歌の題材としても度々用いられてきた。
「マニフィカート(聖書原語のギリシャ語では“メガルノー”)」は
「私はあがめる」と訳される言葉だが、
原意を直訳すると「私は大きくする」という意味である。

「身分の低い、このはしためにも目を留めて下さったからです」(47節)。
この「はしため」という言葉に抵抗を受ける人もいる。
元の言葉では「ドゥーレー(女奴隷)」という言葉が使われており、
そのニュアンスを残して訳されたのだろう。
しかしこの言葉も、「主をあがめる(=大きくする)」こととの対比として、
「自分を小さく(低く)する」という謙譲の言葉ととらえれば、
また違った受けとめもできるのではないか。

私たち人間は、自分を大きくしようという心を持っている。
自分の主義、自分の主張、自分の地位や名誉を重んじようとする心。
それは「マニフィカート=メガルノー」からは最も遠い生き方だ。
「私たちではなく、主よ、あなたの御名こそ栄え輝きますように」(詩編115)。
そのように「神を大きくする」思い、それが「神をあがめる」ということである。

しかし、それに続いてマリアが語った言葉は驚くべき内容だ。
強い者が権力によって牛耳る世界が転覆し、旧態依然とした秩序がひっくり返る。
まるで革命が起こったかのような、ある意味「過激な」言葉が並んでいる。
「はしため」と自称する女性には似つかわしくないほど、
ラディカルで力強い言葉が語られるのだ。
いや、身分が低いとされいろんな重荷を負わされていたからこそ、
このような祈りが生まれたと言えるのかも知れない。

神をあがめる=大きくする生き方。
そこでは人間の地位も権威も秩序も相対化される。
どんな強大な権力者も、神の前ではひと粒の砂に過ぎない。
そのような信仰に立つとき、人は恐れることなく真実を語ることができるのではないか。

ルカ福音書はローマの高官に対して書かれた文書だ。
ルカはこの祈りの言葉を通して、権力者にメッセージを送っていたのかも知れない。
「自分を大きくしようという心を離れ、神をあがめて生きる者になりましょう」と。




『 平和の道を整える者 』  ルカによる福音書1:57-80(12月9日)

クリスマスに最もふさわしい言葉のひとつが「平和」である。
幼な子イエスの誕生を知らせる天の軍勢の言葉「天には栄光、地には平和」。
預言者イザヤの告げるメシヤの誕生の言葉「ひとりのみどり子が生まれた。
その名は驚くべき指導者、力ある神、平和の君と唱えられる」。
平和をもたらす神の御子、それがイエス・キリストだと聖書は伝える。

ルカ福音書はその平和の君の誕生に先立って、
もうひとりの人物の誕生物語から記述を始めている。
ザカリヤとエリサベトのもとに生まれたバプテスマのヨハネである。

祭司ザカリヤの夫婦には長く子どもが授からなかった。
しかしある日天使が現れ、エリサベトが子どもを産むとの知らせを告げる。
ザカリヤはその言葉を疑った。
長く子どもを待ちわびていたが、心のどこかで諦めていたのかも知れない。

その反応を「不信仰の表れ」との咎めを受けて、ザカリヤは口がきけなくなってしまう。
ザカリヤが自分の願望がかなえられるという喜びに至る前に、
彼はひとつの苦しみを身に負わねばならなかった。

宿りの期間が過ぎ、エリサベトは男の子を産んだ。
その名づけをめぐって、「父の名を継がせよう」という周囲の声に対して、
エリサベトもザカリヤも「その名はヨハネ」と返し、人々を驚かせた。
すると突然ザカリヤは喋れるようになり、神を賛美し始めたという。

その時にザカリヤがささげた祈りが、今日の箇所「ザカリヤの預言」である。
生まれた幼な子は救い主の活動のための準備をすること、
罪のゆるしの救いを告げること、そしてその後にメシヤが現れ、
「われらの歩みを平和の道に導く」と告げる。
この予言通り、成長したヨハネはイエスの活動の道備えをした。

そのヨハネの活動とはどんなものであったか?
それは激しい言葉で神のさばきを語り悔い改めを迫るものであった。
「平和の君」を待ち望む人々にとって、それは厳し過ぎるように思えたかも知れない。

しかし、本当の平和の喜びを知るためには、多くの試練や苦労を重ねねばならないこと、
そして何よりも人間という存在に対する深い洞察と反省を持たなければならないこと、
そんなことをヨハネの働きは示していると思う。
それはちょうどザカリヤが、子どもが与えられる喜びを受け取る前に、
口がきけなくなるという試練を身に負わねばならなかったことと重なる。

1945年、終戦直後の状況を生きた多くの日本人にとって、
平和の尊さは何ものにも代え難いものとして受けとめられた。
それは戦争によって多くの命や家財を失うという大きな代償と、
それを引き起こした人間に対する深い反省に裏打ちされたものだった。

いま私たちの国は物理的・軍事的な戦争状態にはない。これは確かに幸いなことだ。
しかし平和な状態が「あたりまえ」になってしまう時、
平和を希求する願いの度合いもまた、低いものになってしまうことを危惧する。

平和への道を整える。
そのためには私たちは、イエス・キリストのゆるしの道だけを求めるのではなく、
一方でバプテスマのヨハネの道も通らなければならないのではないか。




『 ダビデの血筋から...? 』  ルカによる福音書2:1-7(12月16日)

イエス・キリストはヨセフとマリアという、まだ夫婦になっていない男女のもとに、
ベツレヘムでお生まれになった、と記される。
。ヨセフはダビデの血筋であり、ベツレヘムはダビデの生まれ故郷であった。

イスラエルには「メシヤはダビデの家系から生まれる」という言い伝えが
人々の間にいつの頃からか広まっていた。
ダビデの時代、それはイスラエルが最も栄え、周辺諸国に対して力を持っていた時代である。
しかしその後は国力は衰退し、新興大国の支配を受ける屈辱の歴史を長く歩んだ。

「メシヤはダビデの家系から」という信仰には、
「過去の栄光をもう一度!」という人々の期待が込められている。
歴史の大半を被支配国として歩まざるを得なかった人々が、
そんな願いを持つに至ったことは仕方ないことかも知れない。
何人もの預言者がそのことを語り、聞く人々は期待を寄せた。

そしてその預言の言葉どおりに、
幼な子イエスはダビデの血筋の家に、しかもベツレヘムでお生まれになった。
けれどもその「期待のヒーロー」の誕生のあり様は、
人々のイメージする「過去の栄光」とはかけ離れたものだった。

誕生の時期は、人口調査のための旅の途中であった。
税金を搾り取るための人口調査。
その権力者の横暴に抵抗もできず、右往左往している中で、
人知れず、家畜小屋でひっそり生まれた幼な子がメシヤ=救い主だというのだ。

「メシヤはダビデの血筋から...」
そう願う人々の期待とは裏腹な形で救い主がお生まれになったことをルカは伝えている。
これは血筋をことさらに重んじ、血統それ自体に価値を見出そうとする
そんな権威主義的な発想に対する「否!」の宣言と言えるのではないか。

そして成人となったイエスもまた、別の場面で同じように言う。
「ダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか!」(ルカ20:44)

まことの救い主は、ダビデのような軍事的・経済的な力で救いをもたらすのではなく、
愛の力、即ち人と人を結びつける力によって、救いをもたらすお方なのだ。




『 いたましいものの中に 』   ルカによる福音書2:8-21(12月23日 クリスマス礼拝)

すべての民を救うメシヤは、エルサレムの王宮ではなく、
ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったと記されている。
人知れず、小さな貧しい飼い葉おけの中に、救い主はお生まれになったのだ、と。

神戸で過ごした最初の年(1997年)のクリスマスを想い起こす。
12月に入ったある日、教会の若者たちと街に出かけ、
きらびやかなクリスマスツリーに驚嘆した。
次の日には阪神大震災関連のボランティア活動に参加し、
当時まだ建てられていた仮設住宅に、一人暮らしの老婆を訪ねた。

薄暗い部屋で何の飾りもなく、こたつにこもるおばあさん。
我々が訪ねて行って、「人と話したのは五日ぶりや」と言われた。

その時直感的に思ったことは、
「救い主がおられるのはここだ!」ということだった。
あの繁華街の豪勢なツリーの下にではなく、
この部屋にこそ神の救いがあって欲しい...。
強く、強く、そう願った。

救い主の誕生を真っ先に知らされたのは、野宿をしていた羊飼いたちだった。
ここにもひとつのメッセージがある。
当時のユダヤ社会において、羊飼いは最も低く見られていた仕事のひとつだった。
言わば職業的な被差別民である。

そんな彼らに主の栄光が臨み、
天の軍勢が現れて「天には栄光、地には平和」と賛美したということ。
神の救いは、この世界の最も低くされた人にこそまっ先に知らされる...。
そんなことをこの出来事は表わしている。

羊飼いたちはベツレヘムの幼な子を探し当て、
見聞きしたことを居合わせた人々に伝えた。
聞いた者は「不思議に思った」と記されている。
「そんなこと、信じられるもんか!」といった受けとめ方をされたのかも知れない。
ふだん自分たちが見下していた人たちから神の救いの到来を聞かされたのだから。

しかしマリアひとりは、その言葉を心に納めた。
ヨセフと結婚する前に、思いもかけない形で子どもを宿したマリア。
世間の人々の眼差しや中傷は、10ヶ月の間、彼女の心を度々傷つけたことだろう。
しかしそのような痛ましい思いをしていた彼女だからこそ、
羊飼いたちの語る言葉を真実として受けとめられたのかも知れない。

「遺憾なことに、ほんとうのものは、
 大抵はいたましい中から生まれるものだ。」(河井寛次郎 陶芸家)

人の世が続く限り、痛ましい出来事は後を絶たない。
それは起こらないで欲しいことに違いないが、残念ながらそれが無くなることは、ない。
しかし「神の救い」という「ほんとうのもの」は、浮かれ騒ぐ世の喧噪の中にではなく、
痛ましいものの中で、それでも真実を見つめようと願う人の心にこそ、
まっすぐに降りてくるものなのだということ。

今年のクリスマス、そのことを信じたい。




『 救いをこの目で見れなくても 』  ルカによる福音書2:22-40(12月30日)

ルカの誕生物語のエピローグには、二人の年老いた人物が登場する。
ひとりの名はシメオン。
マリアとヨセフがイエスに割礼を受けさせるために神殿を訪れた際に出会った人である。
彼は神が遣わされる救い主に出会うまでは、決して死なないというお告げを受けていた。

「救い主に会うまでは死なない」。
言い換えれば「あなたは必ず神の救いを見ることができる」ということだ。
神の救いを見れるという約束を受けた人物。
「何と恵まれた、光栄な立場の人だろう!」...そう思うだろうか。

確かに自分自身の経験で神の救いに臨めることは幸いなことだろう。
しかしそれは別の視点から見れば、
神の救いの出来事が到来するまでは「死ねない」ということだ。

年老いたシメオンが幼な子イエスに会うまでに、
どれだけの年月が流れていったことだろう。
その間彼の周りでは、神の救いを心から待ち望みつつ、
それを果たせずに死んでいった人がどれだけいたことだろう。

シメオンはそれらの人々の失意を諦めをずーっと近くで見てきた。
それはある意味、救いを見れずに死ぬよりも辛い、切ない体験だったかも知れない。

神殿でイエスに会った時に、シメオンは言った。
「主よ、今こそあなたはこの僕を安らかに去らせて下さいます」。
そこには「ようやくこの辛い人生を終えることができる」という安堵感が漂っている。

もうひとりはアンナという女預言者。
若くして夫と死別し、その後ずっと神殿に仕えていた人だ。
60年以上の長きにわたり神殿で神の救いを待ち望んできた彼女。
その思いが実現した喜びを、預言者として周囲の人々に知らせて回った。
「二人は神の救いを見た最初の人となった...」はたしてそう言えるのだろうか?

よく考えてみよう。彼らが見たのはひとりの小さな幼な子だ。
その幼な子が成長して行なうことになる様々な出来事は、まだ何も始まっていない。
その意味で、二人はイエスに会えずに死んでいった人たちと何も変わらない。
しかし彼らは、実際にはまだ実現していない神の救いの出来事を、
先取りして受けとめて、感謝と喜びの思いを表わしているのだ。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見えない事実を確信することです」(ヘブライ11:1)。
ある意味では、神の救いを完全な形で見ることの出来る人は、まだひとりもいない。
しかし、この目で救いを見れなくても、希望を失わず望みを次世代に託して今日の日を生きる。
そんな信仰の歩みがあることを、この二人の姿は示していると思う。

東日本大震災、原発事故による放射能汚染に見舞われた福島の各地。
住む家を追われ、仮の生活を余儀なくされ、帰りたくても帰れない多くの人々。
事故を起こした原発の廃炉作業に50年、完全な除染に300年かかるとも言われる。
絶望的になってしまう数字に、心が萎えそうになる。

その福島のことに取り組もうと結成された『福島原発行動隊』というグループがある。
これまで原発の開発や研究に携わってきた元技術者・科学者のうち60歳以上の人々が、
汚染された土地を元にもどすための働きに関わろうという取り組みだ。
放射線の影響を過敏に受ける若い人たちに、その作業をさせられない。
影響が少ないと言われる60歳以上で、力を合わせよう...そんな呼びかけに応えて、
700人以上の人々が、メンバーとして登録しているという。

メンバーとなる条件は「原発事故の本当の収束のために働く意志を持つ、60歳以上の人」。
それ以外は問わない。原発反対でも、原発推進でも、それは問わない。
起こってしまったことの後始末を、若い人に替わって担おうという働きである。
60歳以上、どんなに元気でも、働ける期間はせいぜい10~15年であろう。
除染はおろか、廃炉の完結にすら立ち会えないだろう。

けれども、そのような志を抱く人々が次々に現れて、15年×20代=300年経てば、
この大地が再び人の住める土地に戻る日が来るかも知れない...。
今日働く老人たちは、300年後子どもたちが裸足で走り回る日が来ることを夢見て、
今日、自分にできる働きを重ねてゆく...。
「福島復興300年計画」。そんな展望があるのかも知れない。

この目で救いを見れなくても、希望を失わず、
望みを次世代に託して、今日の日を生きる。

やがて迎える新たな年も、そのような思いを大切に抱きながら歩む者でありたい。




 
 
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